港区白金台のプラチナ通りを上ると、武蔵野台地の尾根筋を走る目黒通りにぶつかる。繁華の中、国道1号線に抜ける交通量の多い道路である。嘉永七年(1854)新刻・尾張屋清七板絵図に依ると、通りの両側には、大名の下屋敷がひしめき合うように在った。その辺りは、南町、北町奉行所が治安保持のために定めた江戸の境界線(墨引き線)の近くだった。
その大名屋敷のひとつ、高松藩主松平讃岐守の広大な下屋敷が現在、国立自然教育園と東京都庭園美術館となって公開されている。
この地は、大正6年(1917)に宮内省所管の白金御料地となり、戦後文部省の所管を経て、昭和37年(1962)、自然教育園が開園する。
同じ敷地内で昭和8年(1933)に完成したのが朝香宮鳩彦王邸である。22年(1947)に宮が皇籍離脱して以降、紆余曲折を経て、58年(1983)、その邸宅と庭園が都立庭園美術館として公開された。
自然教育園は、自然を移りゆくまま、できる限り本来の姿に近い状態で残そうという独特の考え方の下、運営されている。例えば園の一画では、樹木の一部を定期的に伐採する間伐をあえて行わず、森が段々と衰退する様子を見せている。その薄暗い樹林の間をのぞいていると、光合成も行われない森が地球環境に及ぼす影響を、しみじみと考えさせられるのだ。
園の奥、水生植物園と呼ばれる大きな池がある。やはり、手つかずの植物、昆虫などが水辺に生息し、それらを誰でも観察できるようになっている。高層ビルやマンションなどが林立する繁華な都会地のど真ん中、このような野趣にあふれた自然が残されていることに驚嘆すると同時に、ここが教育の場であることを改めて思うのである。
国立自然教育園内、水生植物園
それとは対照的に庭園美術館は、宮家の住まいだったことで、建築物も庭園も人の手が尽くされている。
朝香宮邸の外観は各室の機能をそのまま表現し、無駄な装飾を排してシンプルで分かりやすい。一方、室内には、大正14年(1925)のパリ万国博覧会を契機に世界中で流行するアールデコ様式の美しい装飾が施されている。その当時、パリに滞在した宮夫妻の確かな意思が反映されたインテリアデザインである。きわめて貴重で優れた近代歴史的建造物が、この地に残された。
その主要な庭は、毎日の生活に溶け込んだ屋外での多様な活用を可能にするため、完全な洋風庭園として造られた。ここを訪れた人々は今でも、芝生にシートを広げ、食事と歓談を楽しみ、読書をする。小さな子供たちは、親とともにボール遊びをしている。
さらに、敷地の一画には、数寄屋造りの茶室と、それを取りまくように日本庭園が宮邸の時代からある。接客のために造られたのであろう。洗練された様子で大小の岩が組まれ、手入れの行き届いた植木が四季折々の美しい景色を見せる回遊式庭園だ。
東京都庭園美術館(旧朝香宮邸と庭園)
目黒通り沿い、かつての高松藩主松平讃岐守の屋敷地を訪れると、自然と人為という全く異なる二つの屋外空間に出会う。それは、とても興味深いことである。
庭園美術館を後にして、目黒通りをJR目黒駅に向かって歩く。
その大通りには、いくつもの路地がつながっている。それらの中の一つを選んで足を踏みいれると、行き止まりとなり正面に寺が見える。つまり、この路地は寺への参道だった。門脇に「高野山真言宗高福院」と刻まれた石柱が立っている。あまり広い境内ではないが、本堂前に置かれた大きな石灯籠に圧倒される。
「弘法大師が開いた高野山の古図を見ると、金剛峯寺のとなりに高福院があり、由緒寺院であることが偲ばれる。江戸の初期、松平讃岐守は、拝領した屋敷のそばに、讃岐が生んだ偉人弘法大師ゆかりの御寺を建立しようと高野山へ要請した。それが高福院の起源であると伝えられる」との趣旨が、門脇に立つ「高福院略縁起」板に記されていた。
旧高松藩下屋敷からの帰り道、偶然踏みいれた路地の奥に、やはり旧藩主ゆかりの寺を見つける小さな旅となった。
真言宗・高福院(大きな石灯篭が見える)
鈴木丹下
2024年冬季号№4
新年明けましておめでとうございます。今年の干支は辰。辰年は政治の大きな変化が起…
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