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2018年07月号 Vol.9

幕末人物終焉の地(6-3)井伊直弼

2018年07月04日 11:06 by norippe
2018年07月04日 11:06 by norippe

 井伊直弼が大老に就任した頃の徳川幕府は、内外に二つの大きな問題を抱えていた。 それは、内に将軍継嗣問題であり、外にはアメリカ合衆国のハリスによる通商条約の締結という問題である。井伊直弼は、大老としてこの二大問題に取り組まなければならなかったのだ。
 1853年、アメリカのペリーが黒船で来航して日本に開国を迫った際、直弼は老中首座の阿部正弘から対応策を問われ、「積極的に交易すべき」と主張している。このことから直弼は開国派であったと見られているのだが、本質的には保守的な政治家であり、内心では可能であれば鎖国を継続するべきだとも考えていたようだ。この頃に直弼は江戸湾の防備を担当し、幕府の中枢にも参画していくことになるのである。

 幕府の政治は将軍と譜代大名たちが中心となっていたが、阿部正弘は将軍と譜代大名だけでは、これから西洋諸国が日本に押し寄せてくるだろう事態には対処しきれないと判断し、いままで政治の中枢には関われなかった徳川家の親族の大名たちを政治に参画させるようにしたのである。これにより、越前藩の松平慶永や、水戸藩の徳川斉昭らの大名たちが幕政に対する発言力を持つようになっていったのである。
 海防掛顧問となった徳川斉昭は、熱心に攘夷を主張し、直弼はこれに対抗するために開国を主張したのである。時を経るにつれて両者の対立は激しくなっていき、ついに斉昭は直弼の味方である開国派の松平乗全と松平忠固の2人の老中を罷免するようにと要求するのである。
 阿部正弘は斉昭の強硬な主張を受け、やむなくこれを受け入れるが、今度は直弼が強く反発したのだ。そして自身の派閥から老中を新たに任命するようにと要求し、阿部正弘は、今度は開国派で譜代大名の堀田正睦を老中に任命し、軋轢の解消を図ったのだ。こうして阿部正弘は、幕政参加者の枠を広げたことで発生した抗争の調整に追われ、ひどく疲弊していくことになる。
 この後も幕府内の争いはいっこうに収まらず、1857年に心労から阿部正弘が死去すると、代わって老中首座となった堀田正睦は松平忠固を老中に再任し、開国派が勢力を増して行くのである。

 一方で、当時の将軍であった徳川家定は、病弱で子を成すことが難しい状況にあったため、次の将軍は徳川氏の一門から養子を取ることになるのである。このため、分裂していた幕府内では次の将軍を誰にするかで争いが発生した。この時に直弼らは御三家・紀伊藩主の徳川慶福を推薦し、斉昭らは一橋慶喜を推薦し、再び両者の間の主導権争いが激化していったのである。このことから直弼らは南紀派と呼ばれ、斉昭らは一橋派と呼ばれたのである。

「徳川慶福」を推薦
(南紀派)井伊直弼・松平容保

「一橋慶喜」を推薦
(一橋派)徳川斉昭・島津斉彬・松平春嶽



 幕府の職制では、通常は老中が最高位なのだが、非常時などに大きな権限を預け、難局にあたるための臨時職として、大老という地位が用意されていたのである。この時代は西洋諸国が次々と日本に押し寄せ、その強大な軍事力を背景に開国や通商を迫っていたので、まさに非常時であった。

 1858年には、アメリカ領事のハリスが日本との通商条約の締結を強く迫って来ていたが、国内ではこの条約への対応で意見が割れており、幕府は困難な舵取りをしなければならない状況にあった。当時の老中首座であった堀田正睦は京に赴きますが、朝廷から条約締結の許可を得るのに失敗してしまうのである。このため、自身に代わって越前藩主の松平慶永を大老に推薦し、この難局を切り抜けようとした。慶永は、初めは斉昭らとともに攘夷を主張していたのだが、やがて開国派に転じたという経緯があった。このため、同じく開国派の正睦からすれば推薦しやすく、そのうえ、慶永は温厚で聡明な人物であったことから、大老にふさわしいとみなされたようである。

 しかしこの時に将軍の徳川家定は、「家柄や人柄を考慮すると、井伊直弼こそが大老にふわしい」と主張し、これによって急遽、直弼が大老に就任することになったのである。
 彦根藩主になった時と同じく、当人のあずかり知らぬところで地位の引き上げが行われ、家定の側近から説得を受け、直弼は大老への就任を受諾するのである。
家定は将軍と譜代大名が中心となって幕政を動かすのであった。
 しかし直弼は、実は専制的で独断的な政治家としての性格を隠し持っており、この措置によって、日本中に大きな嵐が吹き荒れることになるのだ。
 大老という並ぶ者のいない高い地位についたことが、そのような直弼の性格を引き出してしまった、ということなのかも知れない。
 大老になった直弼はその権限を持って次の将軍を慶福(将軍になった際に家茂に改名)に定め、この争いに勝利したのである。

(次号に続く)

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