[会津軍事奉行副官 神保修理]
幕末維新で名を残した多くの人物の思想に、大きな影響を与えた会津藩士がいた。
坂本龍馬が同士に宛てた手紙には「会津には思いがけぬ人物がいた」と高い評価が書き留められていた。会津軍事奉行副官の神保修理である。鳥羽伏見の戦いの敗戦責任を負わされ、若い命を切腹という形でけじめを付けた神保修理について書いてみた。
神保修理
1868年1月3日に勃発した鳥羽・伏見の戦いは、薩長両軍よりも3倍の兵力を持つ幕府軍であったのだが、最新兵器の威力に押されたという事もあるが、それ以上に幕府軍は戦う事が下手であった。戦況は不利な状態に陥ってしまい、懸命な巻き返しを図っていた会津藩であったが、ここで信じられない事態が繰り広げられたのだ。
総指揮官である将軍慶喜の敵前逃亡である。逃亡の要因にはいろいろ説があるようだが、薩長軍が高々と掲げた「錦の御旗」を見た慶喜は、朝敵になることを恐れ、徹底抗戦を唱える会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬を無理やり引き連れ、軍艦開陽丸にて江戸に退却してしまったのだ。戦場に置き去りにされた幕府軍の兵士たちは、指揮官を失って大混乱状態となり、負け戦となってしまったのである。
鳥羽・伏見の戦いの詳細は、いろいろな書籍で書かれていて、最近は戊辰戦争150年節目の年という事もありテレビでも放映されていた。幕府軍が敗戦したのは、将軍慶喜が兵を置き去りにして江戸に逃げ帰った為であると言われているが、何故、慶喜が逃亡したのかについては知る必要がある。
鳥羽・伏見の戦いを薩長側から見れば、慶喜が逃げたという事実だけで済まされるだろうが、負けた幕府軍側から見れば、慶喜が何故逃げたのかは重要な問題なのだ。
慶喜が逃げた要因には次のような説がある。
慶喜は「水戸出身」であるという事。尊王の思いは薩長よりも強い。そして薩長軍が「錦の御旗」を掲げたのを知った慶喜は朝敵になることを非常に恐れた。また、慶喜は戦争の総指揮をとったが、もともと戦争はしたくなかったが戦争は起きてしまった。この戦争を止めるには指揮官を無くせばいいと思った。指揮官である会津藩主松平容保と桑名藩主松平定敬を引き連れて行くことにより、幕府軍の抵抗力を失わせ、戦争を止める事が出来ると考えた。
そしてもう一つ、会津軍事奉行の神保修理に恭順を切々と唱えられ、ここは江戸に引き返すのが懸命であると言われ逃亡に至った。一般的には最後の説であると言われているが、真相は定かではない。
大坂に兵を置き去りにして江戸に逃亡した慶喜は、江戸城内での大評定の末、陸軍奉行勝海舟が唱える恭順論を支持、上野寛永寺に謹慎して新政府との交渉を、勝に丸投げしたのだ。そして慶喜が強制的に連れて来た松平容保や定敬を、今度は江戸登城禁止の命令を出し、江戸から即刻退去するよう言い渡したのだ。抗戦を唱える容保や定敬をそばに置いていたのでは、恭順の意思が伝わらないからだと言う事なのか。
大坂に置き去りにされた幕府軍将兵は戦意を喪失し、撤退を余儀なくされて江戸への敗走をするのである。幕府譜代名門である淀藩の裏切りに続き、参戦していた伊勢藤堂藩も形勢不利を見て、新政府側に寝返った為、東海道への陸路を塞がれた大坂の幕府軍は、御三家紀州の和歌山まで逃れ、そこから船に乗って江戸に逃げ帰ったのである。命からがら江戸藩邸へ戻った会津軍は、怒りが凄まじかった。敗戦したのは「豚一」のせいだ!と叫ぶ者もいた。「豚一」とは、一ツ橋家の出身である慶喜が豚肉を好んで食べた事から付けられたあだ名である。
江戸の藩邸に到着した会津藩兵は、戦に敗れたショックが大きかったのは勿論であるが、総指揮官と主君が自分達を置き去りにして逃亡した事への怒りが治まらなかった。そして、軍事奉行副官の神保修理が、総指揮官の慶喜と主君に江戸撤退を勧めたために敗北したのだと決め付け、神保修理の処罰を容保に迫ったのである。
修理の処罰を要求したのは誰なのかは明らかではないが、敗戦の責任を明確にしなければ、主君容保の求心力低下も避けられない情勢であった事は否めない。容保は修理の安全を確保する為、彼を会津藩上屋敷の一室に幽閉の形を取り、事態の沈静化を図ったのだが、強硬派の怒りは収まらなかった。容保は、慶喜に無理やり連れてこられたのは間違いないのではあるが、逃亡した事実に変わりはないので、修理を庇うのは非常に難しかった。
会津藩の江戸藩邸があった場所
会津藩上屋敷のあった場所
修理の危機を憂慮した勝海舟も、会津藩当局の要人に対して、彼の身柄を旧幕府に引渡した上で、身の安全を図る様に勧告したのだが、この勝の助言が強硬派の怒りを更に強いものにしてしまったのだ。修理本人も、懸命な危機回避に努めたのだが、事態は修理処罰の声が高まる一方であった。
そして、容保には修理を救う手立ては無く、修理の身柄を会津藩下屋敷に移し、断腸の思いで切腹の命を下したのである。切腹の沙汰を受けた修理は「自分にはもとより罪はないが、君命が出た以上、それに服するのが武士たる者の務めである」と従容として、腹に刃を当てたのだ。
会津藩下屋敷があった場所 奥が藩邸わきの綱坂
神保修理はここ下屋敷で最後を遂げた
以上が一般的な神保修理が切腹に至った経緯だが、また別の説もある。
それは、容保が最後まで修理の処罰に反対したのだが、強硬派が容保の命を偽って切腹の命を神保に伝えた。修理自身、自分を粛清する為の捏造された命令と知りながらも、君命にはあくまで従うという、臣の道を全うしたという説。
また、強硬派が幽閉されていた修理を勝手に強殺して、切腹したと事後報告したという説もある。
神保修理(じんぼしゅり)は、天保5年(1834年)藩内名門(会津藩家老・神保内蔵助)の長男として生まれた。修理という名前は通称で、実名は「長輝」である。幼少の頃より学問に秀で容姿は閑雅であったと伝えられている。藩校・日新館で勉学に励んでいた時代は、周囲から秀才と謳われた。
修理が多感な年代を迎えた頃、折りしも黒船来航にはじまる鎖国の終焉、更には安政の大獄、尊王攘夷運動など幕末動乱の気運が高まっていた時代であった。その影響もあり、海の向こうの異国の情勢にも目を向け、国内の小事より国をひとつにして外国に対すべし、という持論を強く持つようになっていく。真の攘夷を行なうためには、国を開き西洋の文物を取り入れて国力をつけるべきという考え方に至るのだが、江戸遊学で佐久間象山や勝海舟と接した山本覚馬の影響もあったのかも知れない。この二人は相当柔軟な発想が出来る人物だった。
藩主・松平容保は、各藩で行なわれている藩政改革に遅れまいと会津藩内においても人材登用と軍制改革を断行。とくに修理と佐川官兵衛の将来を嘱望していたとされ、藩の重役に登用する。ほどなく容保が京都守護職を拝命してのちは側近くにあって容保に随行し国事に奔走した。慶応2年(1866年)、容保は修理の優れた国際感覚を買い長崎に派遣。藩兵組織と教練方法を西洋化すべく、修理に視察を命じている。その改革によって教練を受けて生まれたのが白虎隊である。
慶応3年(1867年)10月、大政奉還によって風雲急を告げ、修理もまた長崎から大坂へ帰還。12月の王政復古によって事態の収拾が不能となると、修理は高揚する主戦論に対し不戦恭順論を前将軍・徳川慶喜に進言。江戸に帰り善後策を練ることを強く説いた。これにより、会津藩の内部において主戦派急先鋒である佐川官兵衛らと激しく対立したのだ。
神保修理の辞世の句は
「帰りこん ときぞ母のまちしころ はかなきたより 聞くへかりけり」
墓は東京都港区白金台の興禅寺。
諡は遺徳院殿仁道義了居士。
東京都港区の白金台にある神保修理の墓
ここで神保修理の妻である神保雪子についても書かなければならない。
神保修理の妻は軍学者である会津藩700石・井上丘隅の次女・雪子である。妻・雪子との夫婦仲は周囲も羨むほど睦まじいものであったとされ、修理も雪子に対して愛情を注ぎ周囲からも羨望の的であった。修理の自刃後、雪子もまた同年8月の会津戦争において壮絶な最期を遂げている。
会津戦争勃発時、雪子の父親である井上丘隅も戦場に立って戦うのだが、新政府軍の圧倒的な力に会津が負けることを悟った井上丘隅は、一旦自宅に戻った。そこには自刃の準備を済ませた井上一家の姿があったのだ。その中には神保家へ嫁に行ったはずの雪子もいたのだ。父は雪子に「神保家へ嫁に行ったからには、神保家と運命を共にせよ」と叱りつけて、家から出してしまうのだ。その直後に丘隅は家族と共に自刃を遂げるのである。
雪子は「私も死ぬ身、どうせ死ぬのなら愛する夫・神保修理の位牌を抱いて死にとうございます」と言って、父に言われた通り嫁ぎ先の神保家へ戻ろうとしたのである。だが行く先々が銃弾の飛び交う戦場で、神保家に辿り着けないのである。そして雪子は中野竹子たちが女性だけで編成した「娘子隊」の一員となって城外の戦いに参加したのである。
しかし途中、雪子は大垣藩兵に捕えられ、捕虜となって大垣藩の陣営である長命寺の一室に閉じ込められてしまったのである。閉じ込められるだけならいいのだが、若い女を我がもの顔でいたぶり、恥ずかし目をあわせる大垣藩兵であったのだ。許し難い怒りがこみ上げてくる。雪子もこんな思いをするなら、早く殺して欲しいと切に願ったであろう。大垣藩は鳥羽・伏見の戦いでは幕府側についていたのだが、会津戦争では新政府側についている。なんとも情けない話であるが、これが戦争というものなのだろうか。
その後斬首される予定だった雪子を目にとめたのは、たまたま大垣藩の陣営に来ていた土佐藩の吉松速之助だった。もう戦の大勢は決したと見ていた速之助は、縛り上げられた雪子を見て「婦女子を殺しても無益だ。逃げなさい」と、雪子を逃がそうとした。しかし大垣藩兵はこれを許さなかった。
見張りがいない隙を見て、雪子は吉松速之助の腰にある物を貸していただくよう願い出た。吉松はすべてを悟り短刀を渡したのである。雪子は最愛の夫を亡くし、父も母も、兄弟すべてをこの戦争で失い、そして生きるすべを無くし、自分が死ぬことには何のためらいも無かったのだろう。短刀は勢いよく雪子の喉を突き、うなじから歯先が飛び出すほどの壮絶な自決を遂げたのである。享年26歳であった。
戦争には悲劇が付きものというが、これほどの悲劇はほかには無い。将来を有望視された修理、そして雪子という若い命が、こうも無残な形で終わってしまう事に虚しさを覚える。徳川慶喜や松平容保は年老いるまで明治を生きた。特に慶喜の晩年は多くの趣味に没頭したという。先日見た大河ドラマ「西郷どん」に慶喜が出て来たが、遊郭で遊ぶ慶喜は「ヒー様」呼ばれ、飯盛り女達から持て囃されていた。若きしの水戸藩の道楽息子は年老いても性格は変わらなかった。本当に虚しい限りである。
(記者:関根)
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