久しぶりに京都の伏見に向かいました。京阪中書島駅に11時に集合です。 出口が北と南と二か所あり、間違って北出口に出てしまい、誰もいないので間違いに気づき、慌てて南出口に向かいましたら、龍馬が待ち受けてくれていました。
伏見には暫く来ていませんでした。いつの間にか、こんな立派な龍馬とお龍のツーショット像ができていました。案内版より、、「薩長同盟を締結させた直後の慶応2年(1866)寺田屋に宿泊していた坂本龍馬は、伏見奉行所配下の捕り手に囲まれます。この時、危機を察知したお龍により命を救われた龍馬は、しばらく伏見薩摩藩邸にかくまれていましたが、右手の傷を癒すため、ここ寺田屋浜から三十石船に乗りお龍とともに、九州の霧島へと旅立ったのです。」平成23年9月建立
お久しぶりの寺田屋です。私が以前、写した寺田屋の画像は北海道の浦臼にある郷土史料館の冊子に掲載して頂きました。嬉しい思い出です。寺田屋騒動、龍馬襲撃事件といった幕末史に残る事件が相次いだ寺田屋ですが、残念ながら、現在の寺田屋を称する建物は明治になってからの再建です。幕末当時の建物は鳥羽・伏見の戦いで焼失、現在の寺田屋は当時の敷地の西隣に建てられたものであると公式に京都市は結論しています。そして、大正年間に幕末当時の主人である寺田家の所有ではなくなりました。
新しい碑はまだありました。私が30年ほど前に訪れた時は材木置き場のような感じはまだ残っていたと思います。きちんと整備されて龍馬ファンには堪りませんね。
「坂本龍馬、避難の材木小屋跡 」 慶応2(1866)年1月24日未明、薩長同盟を締結した坂本龍馬が、 長州藩の三吉慎蔵と寺田屋に潜んでいるところを伏見奉行配下の役人に取り囲まれました。風呂場にいたお龍が、不穏な気配を察知して2階の龍馬に危機を告げたので、龍馬はピストルで応戦。三吉は槍を構えて戦いましたが乱闘になり、龍馬は両手首を切られてしまいます。負傷した龍馬を肩に掛け、裏口の物置を抜 けて、隣家の戸を破り小路に出て逃走した三吉は途中の寺に探索者がいるのに気付」 き、方向転換して川端の材木小屋を見つけて密かに忍び込み、龍馬をその小屋に置て濠川沿いの伏見薩摩藩邸に駆け込みました。この事件の顛末の詳細は「三吉慎蔵日記」に記されており、龍馬が潜んだとされる西浜の材木小屋は濠川の左岸南方にあったといわれています。 藩邸へはすでにお龍が知らせていたので、藩邸の留守居役の大山彦八は薩摩藩の旗印を掲げた船を出して龍馬を無事救助しました。龍馬の傷は深く、静脈も傷つき、翌日まで出血が止まらなかったと龍馬の手紙にも記されています。龍馬とお龍は1月29日まで伏見薩摩藩邸に滞在し、約1ヶ月後に西郷隆盛らとともに薩摩藩の蒸気船三邦丸に乗船し鹿児島へ向かい、傷の治療をかねて霧島温泉に向かいます。これが、後に日本で最初の新婚旅行といわれています。 伏見観光協会 (社)伏見納税協会 青年部会 平成21年12月 建立
「伏見奉行所跡」 近鉄「桃山御陵前」200メートル、伏見区西奉行町の桃陵団地入口にあります。江戸幕府の遠国奉行の一つで、伏見の民政、御所の警護、西国大名の監視を担っていました。 1868年(慶応4年)1月3日、鳥羽伏見の戦いが勃発、伏見奉行所の会津藩兵を含む幕府軍や新選組と、御香宮神社に陣取る薩長との間で激しい戦闘となる。御香宮神社や桃山方面から伏見奉行所へ大砲が打ち込まれ、幕府軍は銃や砲弾などで応戦、新選組も御香宮に突撃したが、奉行所は焼失してしまう。明治から終戦までは陸軍工兵16大隊敷地、戦後は駐留軍駐屯地を経て、桃陵団地となっています。
料亭「魚三楼」 奉行所西側の料亭「魚三楼」には、表格子を貫く弾痕が今も生々しく残っている。鳥羽伏見の戦いによるもので、幕府軍による砲弾と一致すると言われる。 150年前の木の桟が良く残っていたと思います。
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