星亮一先生が亡くなり、丸2年が過ぎました。逝く直前「次は容保でいこう」というメールを先生からもらいました。いや電話だったかもしれません。先生とは頻繁に電話で話していました。
山川健次郎の『星座の人』が終わった次の作品は最後の藩主・松平容保公でした。星先生は「容保の次はね・・・・・」と、その先のことも考えられていました。
実は、私は星先生の作品を手がける前までは、松平容保公のことはもちろん、会津の歴史はほとんど知りませんでした。乏しい私の歴史知識の中では、会津というと「蒲生氏郷」です。ただ、ここでは氏郷のことを書くのが目的ではありません。容保公のことについて、九州出身の私が思うことを少し記します。本研究会の方々については常識の部類に入る事柄ですので、お許しください。
幕末、容保公は京都守護職に任ぜられます。ほとんど貧乏クジでした。藩内でも大いにもめたようですが、最終的には容保公は受けます。それは徳川幕府を支えるために我及び我が藩は存在するのだという強烈な使命感があったのだと思います。
容保公は、数千人の兵を連れて京都に入り御所警護に当たります。孝明天皇は乱暴者の長州が嫌いだったそうです。だから、都を守る容保公を頼りにしていました。しかし、その頼りの孝明天皇は急死し、その後に起きた鳥羽伏見の戦いでは大将の徳川慶喜が逃げます。容保は「敗軍の将」になったわけです。その容保に対する江戸城内の見方は冷ややかだったようです。居場所がなくなった容保公は傷心のまま容保は会津に帰ります。その後悲劇の会津戦争が起きます。実は、薩長始め西日本諸藩に対する武士らしからぬ軽挙妄動、容易なる変節に対して、東日本、とりわけ奥羽北越の諸藩は、「信用ならない輩」「唾棄すべき存在」とみていました。もし、御所警備をそれら西日本の諸藩が命ぜられていたとすれば(そんなことはあり得ないのですが)、世の中の空気が変わった途端に御所警備など放棄していたでしょう。
鳥羽伏見の戦いで西郷を焦らせたのは会津藩の若者たちの奮戦でした。決して一方的にやられたのではないのです。ただ、その性格ゆえに悲劇から逃れる狡さをもっていなかった、と私は思います。会津戦争の結果は悲惨なものでした。すべてが終わった後、ひっそりと暮らす容保が肌身離さず持っていた一本の竹筒がありました。周囲の者はそれが何か知らなかったそうです。そして、容保公が亡くなられた後、初めてそれを知るのです。「それ」とは、御宸翰でした。御宸翰とは、天皇直筆の文書のこと。そこにはこうありました。「堂上以下、暴論をつらね、不正の処置増長につき、痛心堪え難く、内命を下せしところ、速やかに領掌し、憂患をはらってくれ、朕の存念貫徹の段、全くその方の忠誠、深く感悦の余り、右一箱これを遣わすものなり 文久三年十月九日」
容保公に対する孝明天皇の感謝の文言です。容保公は、今の文京区小日向の自邸で亡くなります。57歳でした。私の容保公に関する知識は、恥ずかしながらこの程度です。星先生が存命ならば、もっと知識が深まったでしょう。先生が逝かれた直後は、私と会津との関わりは終わったと思いましたが、今の私の心の中には「ここで終わりにしていいのか!」という星先生のお叱りの声が聞こえています。
先生ご存命中実現できなかった容保の本。なんとかしたい。それが先生への最高の供養ではないか、今はそう思っています。
最後の最後に、大佛次郎が記した、外から見た会津観を紹介します。 「東北の山地に隔離されて育ったこの地の人々は、他所からの影響を受付けず、藩の始祖保科正之が、吉川惟足の神道を挙用したところから、変動の多い他藩とは明らかに異る倫理を家の生活の中に迎えて、その自然の教化の下に、代々の精神を育て上げた。交通がないから人は純粋で、住む大地の堅固さと共に、一旦身につけた道義の理念に動揺を感じることがない・・・・」(『天皇の世紀』)
【記者 梶原純司(ぱるす出版㈱)】
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