【晩年の松平容保公】
私は、旧会津藩主松平容保公が仮埋葬された「正受院」を訪問しました。幕末まで会津松平家の菩提寺で、過去帳に「明治七年三月、愛彦霊神、敬彦霊神、松平氏、神葬祭二子事」記載が残っており、後にこの二子も会津院内に移されています。松平容保公は、明治26(1893)年12月5日に亡くなり、葬儀は神式で行われ、3,200余名の会葬者を数え、先に葬られていた照姫と同じく「正受院」に葬られました。明治維新後は、松平容保公は明治13(1880)年に日光東照宮宮司となりました。晩年を小石川区小日向第六天町8番地(現:文京区小日向1-2-3辺)の松平邸で過ごし、病床にあった容保公に英照皇太后(亡き孝明天皇の皇后)より牛乳が遣わされ、医師がコーヒーを加え「服用」したというエピソードがあります。
【正受院】
松平容保公死後、第六天町の松平邸には、会津会事務局が置かれました。会津からの修学旅行生が訪れることもたびたびありました。会津関係者の拠点となったようです。戊辰50周年の大正6(1917)年6月9日に、正受院の会津松平家関係埋葬者は会津院内御廟に改葬されております。松平容保公の改葬に伴い先に葬られていた照姫も改葬されています。正受院鐘楼の後ろが松平家の墓所跡です。「正受院」内には、松平容保公が仮埋葬された寺であることは残念ながら何も残されておりませんでした。
【このあたりが「松平家墓所跡」】
【正受院の場所】
「正受院」は、私が2017年から三年間勤務した職場の斜め前に位置しております。勤務当時は、「正受院」が松平容保公の仮埋葬寺院とは全く知らず、通勤時は目の前を素通りしておりました。何かご縁を感じました。
また、「正受院」には「奪衣婆尊(新宿区文化財)」が安置されており、頭巾状に綿を被っているため通称「綿のおばば」として、嘉永2(1849)年に参詣人が群集し、大いにあやりました。あまりにはやりすぎたため寺社奉行の取締りが行われ、それ以後は正月と7月の16日しか参詣が許されなくなりました。木造で像高七○センチ。頭から肩にかけて頭巾状の綿を被っているため、「棉のおばば」とも呼ばれる。咳止めや子どもの虫封じに霊験があるといわれ、綿は咳止めの御礼参りに奉納したと伝えられる。同時代の事件や、噂話を記した『藤岡屋日記』によれば、正受院へ押し入った泥棒が、奪衣婆の霊力により捕えられた話や、錦に引火した灯明の火を、奪衣婆自らもみ消したなどの逸話が評判を呼び、嘉永二年(一八四九)春にかけて江戸中から参詣人が集まったという。本像は小野篁の作であるとの伝承があり、また田安家所蔵のものを同家と縁のある正受院に奉納したとも伝えられる。構造や作風から江戸時代初期の作と考えられ、像低のはめ込み版から、元禄年間(一六八八〜一七〇四)には正受院に安置されていたことが分かる。
【奪衣婆尊】
松平容保公の終焉の地は、かつての第六天町8番地(今の文京区小日向1丁目)にありました。荒木坂の上にあったといわれ途中荒木坂の案内板がありますが、容保公についての記載はありませんでした。
【荒木坂】
この辺りが松平家の屋敷跡になります。
いつ市ヶ谷の屋敷からここに引っ越して 来たのか分かっておりませんが、明治20年代に入ってからと考えられています。明治20年代と言えば東照宮宮司を務め、正三位を授かり、やがて仕事も引退。
また、松平容保公終焉の地から直線距離にして100mほど東の同じく第六天町に、徳川慶喜は明治34(1901)年12月から晩年を過ごしています。二人が過ごした時期は重なりませんが、同じ第六天町でそれぞれ晩年を過ごしました。
【「松平容保終焉の地」と「徳川慶喜終焉の地」】
【晩年の徳川慶喜公】
明治維新後、二人は一度だけ会ったと言われています。容保公が宮司をしてい た日光東照宮に慶喜公が参拝に来られた時です。この時何を話したのか 非常に気になります。この時の模様を想像してみて下さい。何だか胸が 熱くなります。 激動の時代を共にした二人が同じ第六天町で晩年を 過ごしていたことは運命の悪戯でしょうか?この事実に再び胸が熱くなりました。
加えて、徳川慶喜公の孫の慶光氏に、松平容保公の孫の和子さまが嫁いでおります。孫同士が結婚していたなんて、皆さんご存知でしたか?
【松平容保公の孫の和子さま】
【徳川慶喜公の孫の徳川慶光氏】
【記者 鹿目 哲生】
読者コメント