今年は、天狗党筑波山挙兵から160年。私は、3/4に田中愿蔵(たなかげんぞう)隊の史跡調査に出ました。13連勤後の休みですが、巡りたい場所が多いので朝6時に出発。‥のはずが起きたら昼でした (前回休日は起きたら夕方←) 待ち合わせしていた地元郷土史研究友達にごめんなさいをして(6時間待たせ)、13時にひたちなか市を出発。国道349号(太田街道)を猛スピードで北進。本来なら田中隊が迷走を始める助川海防城から赤沢銅山ルートを行きたかったのですが割愛(笑) 福島県矢祭町を経て塙町の『天領の郷ドライブイン』に到着。 田中愿蔵処刑場である所の下河原行刑場は、現在道の駅『天領の郷』になっていて、供養塔が敷地内に移転されています。
【田中愿蔵処刑場跡】
【田中愿蔵】 久慈郡東連地村に藩医猿田玄碩の五男に生まれる。6歳で原忠の塾に学び、藩医田中通碩の養子に入り、弘道館さらに江戸に出て安井息軒に兵学を学ぶ秀才であった。19歳で水戸藩の郷校である時雍館(常陸大宮市野口)の館長に抜擢。1863年、14代将軍家茂上洛時は藩主慶篤に随行し、京にて倒幕論者藤本鉄石らと交わった。【天狗党筑波山にて挙兵】水戸藩町奉行の田丸稲之衛門、藤田小四郎らと横浜鎖港を求め、攘夷を実行しようと脱藩し挙兵した。 瞬く間に同志が集まり同勢は千人を越えた。 彼らを『筑波勢』と呼ぶ。田中愿蔵も一隊の幹部になり、主に食料や資金調達をする役目を担った。 後に栃木宿での『愿蔵火事』や土浦城下真鍋宿焼討ち事件を起こし、これらが幕府からの追討の口実を作ったとして天狗党(筑波勢)から除名される。筑波勢はその後、日光東照宮を占拠し、関八州に攘夷の檄を飛ばして更に勢力拡大しようと図ったが、日光奉行所や宇都宮藩の強い抵抗に合い、隊員が10人1組になり東照宮を参拝する事になった。 参拝が目的では無く間抜けな行動とはなったが、敬幕思想の強い藤田小四郎らもまんざら悪い気持ちでは無かったろうと思う。 日光参拝後は太平山に籠るが、筑波山より無名の山に拠っていても意味が無いとして、再び筑波山に戻った。 【水戸人の病気が始まる】 筑波山に戻った天狗党には、水戸城下で天狗党家族が次々と捕縛されているという情報が入り始めた。 脱藩したとはいえ、既に幕府からの追討軍が派遣されて下妻近郊で合戦に及んでいた彼らは『賊徒』であり、大罪人である。藩籍は無くなっても家族と離縁をしていない以上家族に類が及ぶのは当時としては当然であった。 筑波勢の中の水戸藩士や領内出身者から『水戸城を占拠し、門閥派を駆除してから攘夷をすべきだ!』という声が出始め、攘夷目的の為に挙兵に加わった他国の者や、既に家族と決別をして参加していた隊員らは猛反発をした。 水戸の内ゲバに付き合う為に参加したのでは無いのだから当然であろう。 軍議の結果、『水戸藩』に拘る藤田小四郎の水戸城奪取策が決議され、筑波勢は水戸城に向け筑波山を下りる。 その際、他国の者や攘夷実行に燃える有志ら幾つかのグループは、天狗党を脱退し南へと潜行し、攘夷運動に徹し、そして散っていった。 初志貫徹した南潜行グループこそ真の攘夷志士だったと思います。
天領の郷にて、遅参の廉によりランチを奢らされるという公開処刑を受け、泣きながら次の目的地である『安楽寺』へと進む。 この安楽寺には田中愿蔵の墓があるのだが、スマホのナビが駄目なのか私が駄目なのか辿り着けませんでした。 小高い丘の上にあるのですが道が無い。 時間が無いので『はい次っ!』と安楽寺をスルー。 今回の旅で田中愿蔵の他にもう一人調査したい人物がいた。 その名は八溝小僧だ。 私達一行は棚倉町の図書館へと進む。 【謎の少年八溝小僧】 田中愿蔵隊の中には13歳の少年が2人いた。 1人は成澤竹松、もう1人が八溝小僧と云われた蔀幼君(しとみ ようくん)だ。 八溝山にて田中愿蔵隊は解散し、隊員は幾つものグループに別れて思い思いに下山した。 二本松脱藩の藤田由之助(37)のグループ(20余名)にこの2人の少年はいたのだが、大梅で捕吏に全員捕縛され土蔵に監禁された。 土蔵の中で、蔀幼君は上座に座り、隊員達が左右に控え、1人1人が幼君の前に進み出て平伏するという光景を見た代官役人は『高貴な方の落胤?』と噂し合い、蔀幼君を【八溝小僧】と呼んだ。 (なぜご落胤?と思っていながら小僧と蔑んだのかが疑問) 蔀(しとみ、しどみ)姓は水戸近郊に多くある姓で昔調べた事があった。 姓は藤原で、元々は『人見』(ひとみ)だったが『蔀』に変化した水戸千波の小豪族。 初めは外岡伯耆守の家臣だったが、後に行方郡木崎城の武田民部大輔の家臣となり、佐竹氏に滅ぼされた後、水戸藩に仕えた家(下級藩士)である。 取り調べに対しても本名を名乗らなかった所を鑑みると、さぞや高貴な方の落胤なのか? 棚倉町の図書館で八溝小僧の資料を探したが結局見付からなかった。 私の推理だと、水戸藩家老であり、天狗党激派である助川海防城の山野辺氏の落胤か、藤田東湖の隠し子なのでは? と、思うのですが如何に。
【八溝小僧】
その後、棚倉城跡を散策。
【棚倉城跡】
私達一行は最終目的地、田中愿蔵隊が解散したと云われる『八溝嶺神社』へと急行した。八溝嶺神社は八溝山(1022m)の頂上にあります。
茨城県の最高峰である八溝山は標高1022m、頂上は広い高原状で平坦になっているので、ここが頂上なのか一瞬わからなくなる。 千メートル以上の山で頂上まで車で登頂出来るというのは珍しいのではないでしょうか。 私達一行は、大子町下野宮から八溝山を目指したが、中腹辺りから積雪が見え始め、残り500mで頂上という所まで来たが、深い圧雪の為に車を捨てて徒歩にて登りました。 圧雪と勾配のきつい道をたった500m歩いただけで息も絶え絶えとなった私だが、山頂の八溝嶺神社を仰いだ時はその神々しさに感動を覚えました。
【八溝嶺神社】
田中愿蔵隊330余名は、助川海防城から数隊に分かれてこの八溝嶺神社に集結した。田中愿蔵本隊180名前後の足取りを以下記す。1864年 9月26日 助川海防城~高鈴山東麓~赤澤銅山~入四間村~上深荻村(泊) 9月27日 上深荻村~小菅村(泣手坂、冷水場で水戸藩鯉渕農兵隊と交戦)~陣場~東金砂南麓~東染村~中染村~百目木橋~山田川渡河~天下野村寺入坪~割石坪~西金砂北麓~深串坪~北富田村~盛金村~上原~総本坪~西金村(泊) 9月28日~29日は夜通しの行軍 西金村から郷士鈴木民部に金子70両を持たせて八溝嶺神社別当に先行させ、食糧の調達を命ず。 西金村~川下~頃藤村~舘~横石~大沢村~栃原村~高萱峠~株坂~山田村~芦野倉村~初原村~恵潟が沢~槇野内村~四道~岩崎~梨ノ沢(幕府軍土浦藩兵と交戦)~大久保沢~月柄峠~中郷村~堂ヶ平~笠舟山~太神宮山~舟~高笹山~池ノ平山~八溝山。 助川海防城~八溝嶺神社の距離は最短で67キロあり、件のルートを走破すると100キロ近くあるかもしれない。 大砲こそ無かったとはいえ、武装した彼らが4日間も山中を彷徨い歩き、2度交戦しながら八溝山山頂に辿り着いた時の疲労感は幾ばくか想像し難い。 しかし、彼らが期待していた別当は既に逐電しており、食糧は稗が3俵あるのみであった。 疲労感は悲愴感に変わり、希望は絶望へと変化した。 田中愿蔵は他の分隊が到着すると、社殿に拝伏し、『我が運命これまで‥』と、田中隊解散を告げて、山王権現に装備品を奉納。 奉納の品々 采配 1、大将甲冑 2、槍 35本、刀脇差 160振、鉄砲 13挺、弓 2張、矢 15本、鎧甲 12 社殿前にて全隊員に金子を分配し解散した。 隊員達は幾つものグループに分かれて下山したが、塙・棚倉藩領で132名、野州で164名、常陸で10名が捕縛され、306名全員が斬刑に処された。 中には捕縛時に撲殺されたり、桜の木に逆さ吊りして試し斬りをされたりと、酷い処刑となった。 それだけ天狗党、とりわけ田中愿蔵という人物は当時の民衆にとっては『獣』『悪鬼』の存在であり、深い恨みを持たれていたのでしょう。 【田中愿蔵の最期】 田中愿蔵は八溝山から天領の真名畑村に潜んでいたが通報により塙代官に捕縛された。 牢内では牢番の桜井半兵衛が世話をしたが、若く、人懐っこい愿蔵の人柄に接し、情がうつってしまった。 1864年 10月16日 久慈川沿いの下河原行刑場にて執行のおり、首斬り役の桜井半兵衛は7回躊躇し、愿蔵に促されて8回目に嗚咽しながら首を落としたと伝わる。 辞世 古里の 風のたよりを きかぬ間は 我が身ひとりの やみぞかなしき 天狗党西上~敦賀降伏で、武田伊賀ら353名が斬首されたが、彼らは位階をもらい、また靖国や回天神社で祀られたわけだが、この田中愿蔵以下306名は罪人のまま、公の供養もなく、魂は今もなおこの八溝山周辺に彷徨っているのかもしれない。
【記者 落合 修】
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