ふと思って、考えたら青ざめたんですが。 母方の私の高祖父、大吉翁助徳の話です。大吉家では、代々嫡男が15歳になると知行地の古郷陣屋の書役見習いとして出仕し、18歳で江戸の殿様の御用人になりました。殿様は、5000石の旗本で、斎藤佐渡守利時。旗本斎藤家の祖は、明智光秀の家老だった斎藤利三の三男で利宗。将軍家光の乳母、春日局の実兄にあたります。大吉家は元々が薩摩人でしたが、斎藤利宗が肥後半国を支配していた加藤清正の重臣時代に斎藤氏に仕官し、その後利宗が浪人しても離れなかった斎藤家古参の家臣でした。旗本として常陸真壁郡に知行をもらった利宗は、大吉家を真壁に置きました。後に、三度妾を出して、三度姫をもらい、縁続きとなり、幕末の当主である利時は、翁助の大叔父にあたります。 前置きが長くなりましたが、本題。14代将軍徳川家茂の中奥小姓を務めた斎藤佐渡守利時は、隠居間近に『旗奉行』に栄進しました。15代慶喜の時です。利時は、慶喜率いる旧幕府軍の旗奉行として大阪城に着陣します。旗奉行という役職は、大将の馬印、旗印、幟を管理する役です。 鳥羽、伏見に敗戦した旧幕府軍。そして、皆様ご存知の慶喜逃走事件が起きました。その時、慶喜は家康以来の馬印、金扇を忘れて逃走し、城内を警備していた新門の辰五郎が馬印を拾い、敵中を突破して東海道を下って江戸に持ちかえった。という話も有名です。これおかしくないですか? 馬印を忘れる旗奉行おるん?(笑) しかも家康以来の金扇ですがな! 今まで他人事の様に新門さん馬印の話を聞き流していましたが、斎藤家の恥だという事に『今』気付きました(汗) 本当に新門さんが持ち帰りしていたら斎藤佐渡守は切腹ものだと思うのですが。その後、斎藤佐渡守利時と高祖父翁助は、大阪城から紀州、そして1月19日に軍艦で浦賀に着いていますし、懲罰もありませんでした。はたして真相は如何に? 写真は慶喜逃走の数日前、大阪城にて。矢印が高祖父の翁助20歳。中央が斎藤佐渡守利時です。 何も知らず、数日後に悲劇を見る斎藤家主従。
【記者 落合 修】
読者コメント