JR目黒駅を出て西の方へ少し進むと、行人坂の頂に達する。そこから下をのぞくと、吸い込まれそうになるほどで、都心部でも指折りの急峻な坂だ。まさに、武蔵野台地の縁(へり)から平地部へ下る、この【史跡を巡る小さな旅】シリーズに何度も登場する〝江戸の坂〟だ。
花見、新緑、紅葉の時季には、この幅の狭い行人坂は、沢山の人たちの往来で大変混雑する。ただ、積雪に歩くのは危険すぎる。
嘉永七年(1854)・尾張屋清七板絵図にも、はっきりと行人坂と書き込まれている。このような絵図のなかに坂の名が表記されるのは極めて稀なことで、当時から有名な坂だったのであろう。
その絵図によると行人坂は、その頂から大圓寺と細川越中守下屋敷の門前を下り、目黒川にかかる太鼓橋まで続く。道はそのまま真直ぐに延び、江戸の大人気スポット目黒不動に至る。この急峻な坂道には、昔から沢山の人々が往来していたのだ。
寛永年間(1620代)に高僧行人の大海法師により開基された大圓寺には、江戸市中で托鉢修業をする行人が多く住んだことで、いつしか門前の坂道が行人坂と呼ばれるようになった。
行人坂の途中に立つ大円寺山門
大円寺はそのままに在り、細川藩下屋敷は昭和6年(1931)に目黒雅叙園となって現在に至る。花見の時季、大勢の人々が川沿いを訪れる目黒川に架かる橋は、今も太鼓橋と呼ばれる。
私の曾祖母光子は、昭和12年(1937)、喜寿を無事に迎える。祖父威は母の祝宴をこの目黒雅叙園で催し、その席に同じ会津出身の柴五郎陸軍大将を招こうと計った。柴五郎は、短い日々であったが青森での書生生活を共に過ごした、母にとって忘れられない人だった。すでに彼が予備役に編入されていたことも、威の背中を押した。
しかし私は、従前からこのことにある疑問を覚えていた。祖父はそれまで、客を招いた宴会では上野精養軒を使っていたからだ。目黒と上野では、山手線で全く正反対の位置だ。
なぜ雅叙園だったのか? それは、本誌2021年3月号拙稿「柴五郎終焉の地」で明らかにした柴邸の位置が関係していた。妻に先立たれた79歳の将軍は当時、玉川上野毛の屋敷で長女光 子の世話を受けながら生活していた。ここは少しややこしいが、彼は結婚し娘が生まれると、その子に初めて恋した人の名を付けていたのだ。
祖父は上野では遠すぎて老将軍が招待を受けてくれないと考え、柴邸により近い目黒での祝宴を決めたに違いない。ただ、そのおかげで10歳だった威の末娘は、余興に弾く大きな琴を持って山手線を半周する羽目となった。
こうして柴五郎と光子は、青森での別れから65年ぶりに、ここ雅叙園で再会を果たした。
祖父が開いた祝宴の2年前、料亭「百段階段」が雅叙園内に建てられた。
「百段階段」は、そばを走る行人坂の急勾配に合わせて造られた。そこは昭和63年(1988)まで営業していて、七つの和室が段数99の階段廊下によって繋がれている。それぞれの和室の天井や欄間には、著名な画家たちが、迫りくる戦争のせいで顔料などの不足するなか、驚くほど豪華な装飾をほどこした。そこは「昭和の竜宮城」と呼ばれた。
武蔵野台地の縁にあった細川藩下屋敷の広大な斜面地には、宴会場、ホテル、事務所などの建造物が立ち並ぶ。その敷地内に現存する唯一の木造建築である「百段階段」は、都の有形文化財に指定されている。急峻な行人坂が生んだ貴重な文化財が、この地に残されたのだ。
目黒雅叙園(細川越中守下屋敷跡)・メインエントランス
メインエントランスへ向かう途中、「お七の井戸」と表示された小さな井戸がある。お七とは、恋こがれた寺小姓吉三に会いたい一心で放火事件を起こし、天和3年(1683)、鈴ヶ森で火刑に処された本郷の八百屋の娘である。井原西鶴の「好色五人女」に「八百屋お七」として取り上げられ、広く知られるようになった。
吉三はお七の火刑後に僧侶となり名を西雲と改め、この敷地内にあった明王院で勤めていた。西雲は隔夜一万日の行を成し遂げるのだが、念仏行へ出る前に必ずお七の菩提を弔い、この井戸の水垢をはがしていたという。それで、「お七の井戸」と呼ばれるようになった。
「お七の井戸」
この地には、再会を喜ぶ二人と別離を悲しむ二人がいた。彼らに出会う小さな旅となった。
鈴木丹下
次号、「乃木希典を歩く」と「勝海舟を歩く」
2024年冬季号№4
新年明けましておめでとうございます。今年の干支は辰。辰年は政治の大きな変化が起…
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