今回は、 禁門の変にて戦死された 「来嶋 又兵衛」 さんを取り上げたいと思います。 この方も、 私の実家がある福岡県大牟田市(三池藩) にいらっしゃっています。 私の出身地、 三池藩と隣り合っていた柳川藩領の境界が 以前ご紹介した三池藩の陣屋近くにありました。
【福岡県大牟田市三池 『 陣屋跡 』 】
【福岡県大牟田市三池 『 三池藩と柳川藩の境界 』 】
柳川領は宿場町としてにぎわい、 三池藩領は陣屋町として栄えたそうです。 宿場町には、 かつて島原藩主常宿で栄えた旅宿島原屋もありました。そして、 幕末には長州藩から 武術留学生として来嶋さんが おみえになっていたのです。 三池藩内の宮部という地に、 大石武楽という名のある剣士の道場で修行中のある日 友人数人と三池宿場町に酒飲みに出かけたことが 彼の日記に記録されています。 来嶋さんも大牟田に来ていたのかと思うと、 本当に大牟田もすてたもんじゃないです
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せっかくなので、 ここで来嶋さんの熱い一生をご紹介しておきます。 『長州藩に限らず、志士の中では高齢である。天保七年(一八三六)に来嶋又兵衛政常の 婿養子となり、以後、柳川、江戸で剣術修行に邁進し、嘉永元年(一八四八)に帰国、同四年に家督を継いだ。同年十月に手廻組に入ってい以後、江戸方用所役兼所帯方など 藩の要職を歴任した。攘夷活動に入った頃はすでに一家を構えていたが、又兵衛は最も激越な志士でもあった。 文久三年(一八六三)年に高杉が奇兵隊を創設すると、又兵衛は遊撃隊(のち遊撃軍と改称)を組織し、互いに連携して国事にあたるとした。元治元年(一八六四)の蛤御門の変に 際しては最も過激に出兵を主張し、事実、兵を率いて京へのぼり、激戦を繰り広げた。
『 蛤御門 』
この戦闘中、馬上の又兵衛は胸部を鉄砲で撃ち抜かれ、助からないと悟って自害した。 介錯は甥の喜多村武七、又兵衛は喉を突いて死んだという。古武士の風韻を持った志士だった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 享年46歳。
蛤御門の変で、 最も激戦地となったのがこのあたりでした。今も残る大きな椋の木は、当時ここに清水谷という公家屋敷があったことから 清水谷家の椋と名付けられています。 来嶋さんはこの木の付近で戦死したと伝えられています。来嶋さんの死によって長州勢は総崩れとなり、敗走する結果になりました。
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妻に向い、 国事に奔走するのも 「これが最後」 といって 出兵した来嶋さん。 結果的に、この蛤御門の変が来嶋さんの最期となりました。
<引用文献> ・ 『 ふるさと散歩~大牟田再発見~ 』著者 絵・中川原 廣吉 文・藤吉 齊 ・ 学研 『 図説・幕末志士199 』 ・ ユニプラン 『 新選組と幕末の京都 』
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