平成25年(2013)9月8日、東京が2020年のオリンピック・パラリンピックの開催地に決定した。その後、東京招致委員会は、国際オリンピック委員会(IOC)へ提出した立候補ファイルを公表した。
その立候補ファイルに全競技会場の配置計画が示されていた。それらは、晴海ふ頭に計画されている選手村を中心として、北西方向に半径8kmの半円で拡がるヘリテッジ(遺産)ゾーンと南東方向に同じ半円で拡がる東京ベイゾーンの二つの地域に集中配置されている。(ただしその後、開催経費の削減や地方活性化の要請などから、当初の競技会場の集中配置は見直され、都心を離れた既存施設や地方でも一部の競技が開催されることになった)
ヘリテッジゾーンでは、昭和39年(1964)のオリンピックの時に造られた国立代々木競技場(丹下健三設計)や日本武道館(山田守設計)などが再び使用される。
東京ベイゾーンには複数の新設や仮設の競技会場が計画され、まさに今、建設の途上である。その大部分は明治以降に東京湾を埋め立てた造成地であるが、それ以前の人工地も利用される。
選手村予定地の近く、あまり大きくない二つの正方形の島が隣りあって在る。幕末、海防のため江戸湾を埋め立て造られた第三台場と第六台場の跡である。台場という名称が由来となり一帯がお台場海浜公園と呼ばれ、美しく整備されている。ここではトライアスロンと水泳(マラソン10km)の競技が予定されている。
第三台場、左奥が第六台場
新橋駅から新交通システムゆりかもめに乗り、お台場海浜公園駅で下車すると直ぐ浜辺に着く。静かに打ち寄せる波の向こうに第三、第六台場の遺構が見えている。その先にレインボーブリッジが巨大な姿を見せ、さらに遠く都心の高層ビルが林立している。
現在、第三台場は新たな埋め立てによる遊歩道で渡れるが、第六台場は当時のまま海の中に在る。第三台場には当時の陣屋の基礎が残され、複数の火砲跡が海を見つめている。
第三台場、陣屋基礎の跡
第三台場、海を望む周辺部
江戸湾上には台場が全部で五つ造成され(第四台場は未着工)、それぞれに数十門の火砲が据えられていた。
これらの台場を幕府に進言して造らせたのは、伊豆韮山の代官・江川太郎左衛門英龍であった。さらに彼は、台場の設計から完成までの総指揮を執ったのである。
江川英龍は蘭書で土木・築城技術を学んだ。測地術については、父・英毅の時より江川家と交宜のあった伊能忠敬、間宮林蔵から影響を受けたとも言われている。西洋砲術については、高島秋帆の指導を受けた。
西洋の近代生産技術の導入に卓越した業績を残す英龍であったが、その基となる鉄の生産については、びっくりする方法で学んでいる。27歳の時、江戸の刀匠・荘司直胤のもとに入門、その鍛冶場で刀打ちをしながら基本的な精錬や製鉄の知識と技術を習得するのである。そして、
その経験が韮山反射炉の実現に繋がっていく。
韮山反射炉(世界文化遺産)
文政6年(1823)の頃から、英、米、露国などの船が開港を求め、しばしば日本沿岸に現れるようになる。そのため英龍は、天保8年(1837)、幕府に海防策を初めて建議し、その後もたびたび献策するが中々受け入れられないでいた。
しかし初の建議から16年後、ペリー来航という大事件があり、幕府も彼の考えを認めざるを得なかった。
英龍は、その最晩年、我国の海防のために大車輪で働き、具体的な業績を数々残す。ペリー来航による外交問題の処理にも手腕を発揮する。そして、彼の命は燃え尽きた。
嘉永6年(1853)6月、ペリー、浦賀に来航
同年8月、江戸湾の台場起工
嘉永7年(1854)1月、ペリー、神奈川沖に再来
同年3月、日米和親条約締結、下田開港
同年5月、江戸湾に第一、第二、第三台場完成
安政1年(1854)6月、韮山反射炉起工(安政4年完成)
安政2年(1855)1月、英龍、江戸本所の江川屋敷で没、享年55
幕末、海防つまり海外からの侵略に対する防御に力を尽くした人物、江川英龍がいた。その尽力の証しである台場の周辺に世界中から人々が集まり、二年後、平和の祭典が開かれようとしている。 (鈴木 晋)
(次回は、都営地下鉄三田線の高島平です)
2024年春季号 vol.5
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