今回のマガジンの表紙は、会津藩主松平容保が孝明天皇から御宸翰を下賜された場面を描いてみました。
会津藩主松平容保は京都守護職に任命され、幕末の動乱の京都を守りました。文久3年(1863)その行動に対して孝明天皇から御宸翰と御製を下賜されたのです。大名が天皇からご宸翰と御製を下賜されるのは異例のことなのです。御宸翰(ごしんかん)は天皇直筆の手紙、御製(ぎょせい)は天皇の和歌のことを言います。
御宸翰には
「堂上が、乱暴な意見を連ねて、不正の行いも増え、心の痛みに耐えがたい。内々の命を下したところ、速やかにわかってくれ、憂いを払い私の思っていることを貫いてくれた。全くその方の忠誠に深く感悦し、右一箱を遣わすものなり」
といった容保の忠誠に感謝し、孝明天皇が容保に心を寄せている様子が書かれています。
容保こそが尊王の使徒であることがよくわかります。
また御製には
たやすからざる世に もののふの忠誠の心をよろこびてよめる
「和らくも たけき心も相生の まつの落葉の あらす栄へん」
「もののふと心あはしていはほをも 貫きてまし 世々の思ひて」
平穏を望む天皇の心も、勇猛な容保の武士の心も、一つの根の相生の松のように共に栄えて欲しいものだ。武士と心を合わせればどんな困難にも打ち勝ち、代々伝えられるだろうと言った内容を詠っています。
松平容保は、御宸翰と御製を入れた小さな竹筒を首から提げて、終生肌身離さずにいたのです。そしてその中身を誰にも見せることはありませんでした。 容保は明治26年に亡くなりましたが、その10年後にこの御宸翰と御製の存在がわかりました。朝敵とされて波乱にとんだ人生に幕をを閉じた容保でありましたが、生涯かたくなまでに守り通したものは一体何だったのでしょうか。
動乱時期に、容保がこの御宸翰を公開すれば会津藩は朝敵にならずに済んだのではないかと言われていますが、はたしてそうだろうか。薩長の謀略が渦巻く時代、闇から闇へ葬られ、会津藩がけっして朝敵でない証の御宸翰と御製は、薩長の手によって抹消されたに違いないのでは。
御宸翰と御製の存在を知った時の明治政府は、この事実とその内容が公になれば、自分達が作り上げた明治維新が根底から崩れてしまうという恐怖にさいなまれ、密かに御宸翰と御製を譲渡するように大金を準備し圧力をかけたのだといいます。しかしながら旧会津藩・松平家はこれをかたくなに拒否し続けたのです。
明治維新誕生の高価な代償になってしまいましたが、容保が守り通したご御宸翰と御製は、会津藩の正義と忠誠を永遠に伝える証しそのものなのです。
2024年春季号 vol.5
今年は3月後半が寒かったせいか、例年より桜の開花が遅くなっておりましたが、全国…
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