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ザ・戊辰研マガジン

2018年11月号 vol.13

会津若松と柴五郎

2018年11月06日 12:20 by tange
2018年11月06日 12:20 by tange

 この9月24日、戊辰研「会津まつり集会」の翌日、私は、柴五郎の波瀾に満ちた生涯に思いを馳せ、会津若松市内を彷徨っていた。まだ祭りは続いており、特にバスの運行が大変乱れ、バス停で長時間待たされることも度々であった。
 そんな中、まず幕末に柴一家が住んでいたところに向かった。

 柴五郎陸軍中佐は、明治33年(1900)4月、北京の公使館に駐在武官として着任する。その直後の6月、義和団の乱が勃発する。
 日本公使館は、英、米、仏、露、独、伊など10カ国の公使館で構成された公使館区域にあった。その区域は、紫禁城地区に隣接し、周囲を高い塀で守られ城のようになっていた。そこを義和団が、後には清国の正規軍が一緒になって攻めてきた。北京籠城の55日が始まった。
 彼は、その的確な用兵や作戦で敵を苦しめ、少数の兵でこの区域を守っていた。彼の沈着で時折の大胆な指揮振りは、その人格の潔さと相まって、籠城戦が長引くなか城内の人々から厚い信頼を得ていった。そして、他国の兵に対しても指揮を執るようになる。
 しかし、籠城戦は予想以上に長引いた。もう撃つべき一発の弾丸も、口にする一片の食料も無くなろうとしていた時、援軍が到着した。紙一重の勝利であった。
 北京籠城戦での柴五郎中佐の奮闘が城内にいた多くの婦女子を守ったことは、従軍記者によって世界中に伝えられ、各国から大きな称賛が寄せられる。
 柴五郎は、旧会津藩士の子息であったために辛酸をなめ尽くした少年時代を過ごすが、会津人に代々受け継がれていた沈着、勇気そして不屈という資質を、全世界に示したのである。

 「戊辰若松城下町明細図(会津若松市立図書館蔵)」によると、本二ノ丁の東側に柴太一郎・二百八十石という書き込みがあり、ここが柴五郎の生家であり、10歳で戊辰戦争に遭遇するまで暮らしていた場所である。太一郎は五郎の長兄である。
 会津若松城下は、当時、城の北出丸からほぼ真北に延びた甲賀町通を中心に城直下の本一ノ丁から本五ノ丁までが郭内に形づくられていた。さらに、城の西側に米代丁、東側に小田垣丁と町割りされていた。
 二度の戦禍にあった城下(郭門内)には、当時の建造物などほとんど残っていない。道路の両側を一つの区画とした当時の丁名表示も、現在は使われていない。しかし、その基となった道路は、概ね残されている。
 市立図書館で入手した「戊辰若松城下町明細図」のコピーを手にして甲賀町通から旧本二ノ丁を東へ往くと、直ぐ山川大蔵・千石の屋敷跡に着く。そこには「大山捨松生誕の地」とした説明板が立っている。さらに東へ進むと行き止まりになってしまう。市立第二中学校と公営の住宅団地に往く手を阻まれるのだ。一旦北へ迂回し、旧本二ノ丁へ戻ると「つばくろ児童公園」に出合う。その北の端に、五郎の生家跡を示す碑と説明板が立っていた。ただ、その生家は本二ノ丁の通りを挟んで公園とは反対側にあったはずなので、正確な位置ではない。その辺りには民家が密集していて適当な場所が得られず、公園内に立てたのかもしれない。その碑は大変小さく、碑文も長い風雪にさらされほとんど読めない。
 少し余談になるが、五郎の生家近くで本三ノ丁の南側に池上武助・二百五十石の書き込みがある。この池上家は、秋篠宮紀子妃殿下のご先祖である。


柴五郎生家跡を示す碑と説明板

 柴五郎の生家跡を示す碑を見つけた後、墓を探した。彼の墓は、小田山の麓、恵倫寺にあることを調べていた。
市内を流れる湯川に架かる小田橋を渡ると直ぐに恵倫寺に着く。恵倫寺は、天正18年(1590)、会津の地を治めていた蒲生氏郷によって城の西、米代の地に創建され、慶長17年(1612)、ここに移された。


恵倫寺

 本堂の裏側から斜面へ向かって墓地が広がり、その一番奥にある柴家の墓所を探し当てることは容易いことと思っていた。私は、後で知ることになるのだが、そこへの道の選択を完全に間違っていた。小田山の斜面は予想をはるかに超えて急峻だった。真夏の気温になったその日、汗だくになりながら、ジグザグの幅狭い危険な道を何度も折り返し登り、尾根近くの柴家一族の墓所に辿り着いた。そこには墓石が沢山並び、柴太一郎、四朗、五郎の墓もそれぞれにあった。しばし、一人ひとりの墓前で思いを巡らし、その後、さらに少し先へ進み山の尾根に出た。


柴家墓所

 既に予備役に編入されていた陸軍大将、柴五郎は、昭和18年(1943)9月4日、長女・光子に伴われこの墓所を訪れている。その年の8月23日は会津戊辰戦争で籠城戦が始まった日に殉難した祖母、母、三人の姉妹の七十六回忌で、菩提寺である恵倫寺で法要を営み墓参りを済ませたと、彼の日記に記されている。私が苦労して登って来た道を85歳の柴五郎も上がってきたのだ。これには驚嘆するが、長い軍人生活で身体も鍛えられていたのであろう。
終戦の年の12月、世界史に名を刻んだ将軍は、光子に看取られ、玉川上野毛の屋敷でその生涯を閉じる。享年87。


柴五郎の墓


 小田山頂上には文化5年(1808)に没した会津藩家老・田中玄宰(はるなか)の大きな墓があり、その付近一帯が小田山公園として整備されている。そして、麓から山頂に至るまで、登りやすく安全な遊歩道が整えられていた。その道を登って来れば、途中右手に柴家墓所への案内板があり、きわめて簡単に着けたのだ。遊歩道の登り口は、恵倫寺からかなり離れているが、かつて会津を治めていた葦名家の廟所が近くにあり簡単に見つかる。
 小田山頂上への遊歩道の中腹に「西軍砲陣地跡」と表示された場所がある。西軍は、150年前の戦争の時、ここから会津軍が籠城した鶴ヶ城の天守を目掛けて毎日砲撃を繰り返していた。
 復元された天守閣が見えている。彼我の距離、およそ1300メートル。良く命中したものだ。猛烈な砲撃にひと月のあいだ耐えた鶴ヶ城をほめるとともに、西軍の練度にも感心せざるを得ないと、そこで思った。


小田山中腹より鶴ヶ城天守閣を望む

(平成30年10月、鈴木 晋)

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