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ザ・戊辰研マガジン

2018年11月号 vol.13

戊辰研マガジン13号の表紙について

2018年11月06日 12:18 by norippe
2018年11月06日 12:18 by norippe

 今回の表紙は彰義隊の戦い(上野戦争)を影絵で描いてみました。

 慶応4年、京都の鳥羽伏見の戦いで敗れた徳川軍は海路で江戸にもどりました。そして新政府は、徳川家当主の慶喜を朝敵として討伐を命じたのです。徳川慶喜は江戸城を出て上野寛永寺で謹慎しました。 新政府は江戸の武力鎮圧を計画しましたが、これに対し和宮や篤姫は、新政府東征大総督有栖川宮に対し武力発動をしないよう依頼したのです。そして徳川家陸軍総裁の勝海舟と新政府総督府参謀西郷隆盛の話会いで、江戸城を新政府に明け渡すことになりました。 これが「江戸無血開城」と言われるものです。

 江戸城は新政府側に引き渡され、寛永寺にいた徳川慶喜は水戸に引き下がり、水戸の講道館で引き続き謹慎することになりました。 この頃、江戸では旧幕臣の一部で江戸無血開城に不満を持ち、慶喜の朝敵処分撤回を目論む一派が組織されたのです。この組織が後に「彰義隊」となりました。「大義を彰かす」という意味でこの名が付けられました。

 江戸城を接収した新政府軍でしたが、江戸の治安維持に手が回らず、そんな状況下、江戸の町では新政府軍の兵士と旧幕臣との間でいざこざが頻発しました。薩長の兵を嫌う江戸市民に彰義隊は大変人気があり、入隊者が相次ぎました。そして彰義隊は2000名を超える兵力となり、寛永寺門主輪王寺宮能久親王が彼らを擁護するようになるのです。輪王寺宮能久親王の出現は、彰義隊にとって新たな盟主を頂いたことになり、新政府側は手を出しにくい相手となったのです。

 事態は日々変化していきました。北関東に引き下がった旧幕臣の一部が勢力を伸ばし始め、新政府は江戸の鎮静化を急速に進める必要に迫られました。そして新政府は大村益次郎を指揮官に任命したのです。新政府は彰義隊の討伐を決定するのですが、これに対し彰義隊は防衛の強化をはかりました。
 慶応4年5月15日、寛永寺の南方と西方から新政府軍3000名による攻撃が始まりました。南方の上野広小路あたりからは、薩軍を主力とした部隊が砲撃を開始。彰義隊も山王台から大砲で反撃するのですが、大村の戦略は過激なもので、容赦ない集中砲火を彰義隊に浴びせたのです。彰義隊は新政府軍のすさまじい攻撃にたじろぎました。 新政府軍は江戸市民にその強さをアピールするため、あえて市街地の真ん中で戦闘を行ったのです。 南方からの新政府軍は、山王台の西の黒門口で守備する彰義隊と白兵戦となり、両軍の損害は多大なものとなりました。 新政府軍は100名、彰義隊は260名の戦死者を出したのです。 上野公園の山王台には彰義隊の墓所があり、ここで戦死者を火葬したと言われています。そして遺骨は南千住の円通寺に埋葬されました。 寛永寺を占領した新政府軍は、旧幕府軍が寛永寺を再度利用出来なくするため、根本中堂に火を放ったのです。

 この日一日の戦闘で彰義隊は壊滅しましたが、以後、戊辰の戦いは北関東から東北各地、そして函館へと突き進むのです。

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