会津藩第9代当主の松平容保公(会津へは養子入り)の戊辰戦争後についてレポートします。戊辰戦争後、松平容保公は鳥取藩にお預けの身となり、東京に移されて蟄居しましたが、嫡男の容大が家名存続を許され華族に立てられました。また、容保公は処刑されることはありませんでした。実のお兄さんであります尾張徳川家当主の徳川慶勝(よしかつ)や、弟の一橋家をついだ徳川茂徳(もちなが)が助命嘆願をしたため罪を減じられ、処刑されることはありませんでした。しかし元が真面目な人ですから、相当罪悪感はあったとみえて自ら蟄居(自宅謹慎)しています。明治時代に慶勝から「尾張徳川家を継がないか」とも言われていますが、容保は断りました。「自分のミスで多くの人を苦しいめに遭わせたというのに、それを忘れて他の家を継ぐことはできない」という理由だったそうです。 元はと言えば幕府や孝明天皇の意に沿って色々と奮戦し、当人に間違いがあったとも思えますが、いずれにせよ単なる理想主義なお殿様ではなかったということですね。明治時代に磐梯山が噴火して旧領に戻った際、容保を懐かしみ、ありがたがった古老もいたそうで。ついでながら、容保の実の兄弟を確認しましたところ、これがすごい。
【左から尾張藩徳川家慶勝・会津藩松平容保公・一橋家茂徳・桑名藩定敬】
【松平容保公の写真】
【会津松平家第10代当主 松平 喜徳(容保の養子で第15代将軍徳川慶喜の弟)】
松平家第10代当主の松平喜徳(まつだいら のぶのり)氏は、水戸徳川藩主徳川斉昭の十九男。つまり、徳川慶喜の弟にあたります。1867年九代藩主容保の養子となりました。1868年2月容保の隠居により家督を相続しました。明治元年9月戊辰戦争敗北により家名を断絶され、容保と共に永禁固を命じられました。その後、容保との養子縁組を解消し、前松川藩知事松平頼元の養子となりました。谷中霊園に葬られております。
【会津松平家第11代当主 松平 容大】
松平家第11代当主の松平容大(まつだいら かたはる)氏は、松平容保公の長男として生まれました。明治二年松平家再興を許され、青森県斗南藩三万石を与えられました。明治四年廃藩置県により斗南藩は斗南県となり知事職に任ぜられました。1906年には貴族院議員に選ばれました。
【会津松平家第12代当主 松平 保男】
松平家第12代当主の松平保男(まつだいら もりお)氏は、松平容保の七男。1925年海軍少佐を務めました。1927年貴族院子爵議員となりました。兄恒雄の長女節子(後に勢津子)と秩父宮雍仁親王の婚約の際、恒雄は平民籍であった為、爵位を継いでいた保男の養女の形をとり1928年(昭和3年)9月28日の婚儀の際には保男邸より送り出しております。
【会津松平家第13代当主 松平 保定】
松平家第13代当主の松平保定(まつだいら もりさだ)氏は、松平保定氏は松平容保の孫。1945年財団法人会津保松会設立と共に名誉顧問として、会津松平家歴代藩主・当主の御遺徳を賛仰し、御薬園並びに院内御廟を維持管理する為に力を注ぎました。なんとなんと、平成元年昭和天皇崩御の際、大葬祭官を任じられました。
【会津松平家第14代当主 松平 保久】
松平家第14代当主の松平保久(まつだいら もりひさ)氏は、松平容保公の曾孫にあたります。元NHKエンタープライズ エグゼクティブ・プロデューサー。会津会と会津名誉委員会に所属しております。
【会津藩第15代当主 松平 親保】
2019年9月の「会津藩公祭り」で松平容保公役として初登場しました松平家第15代当主の松平親保(まつだいら ちかもり)氏は、松平保久氏の長男。松平親保氏は、現在、早稲田大学政経学部三年生。これからの活躍が楽しみです。
【会津松平家家紋】
【記者 鹿目 哲生】
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