東禅寺山門 東京都港区高輪3-16-16 東禅寺は山号を佛日山。宗派は臨済宗妙心寺派の別格本山。創建は慶長14年(1609)
開基は伊東裕慶、嶺南崇六(開山)。正式名は海上禅林佛日山東禅興聖禅寺という。
そう、東禅寺は幕末に日本初のイギリス公使館が置かれたところなのです。 銘板には幕末の開国に伴い、安政6年6月、初代英国公使ラザフォ-ド・オ-ルコッ クが着任すると、東禅寺はその宿所として提供され、慶応元年(1865)6月まで7年間英国公 使館として使用されたとあります。その間、文久元年(1861)5月には尊王攘夷派の水戸 藩浪士に、翌2年5月に松本藩士により東禅寺襲撃事件が発生し、オ-ルコックが著した 「大君の都」には東禅寺の様子や東禅寺襲撃事件が詳述されていると書かれています。
第一次東禅寺襲撃事件は5月28日午後10時頃、有賀半弥をリ-ダ-とした水戸藩脱藩の 攘夷派浪士14名が東禅寺イギリス公使館内に進入、オ-ルコック公使らを襲撃したが、 警備についていた旗本や郡山藩士・西尾藩士らが応戦し、邸の内外で攘夷派浪士と戦闘 し、双方が死傷者(警備兵2名、浪士側3名が死亡)。オールコックは危うく難を逃れたが 書記官ロ-レンス・オリファントと長崎駐在領事ジョ-ジモリソンが負傷した事件です。
私がこの事件に関心を持ち、ここ東禅寺を訪れたのは、襲撃した浪士の中に後、天誅組 の変に参加した岡見留次郎がいたからです。
岡見留次郎 水戸藩士。大番組岡見甚兵衛の二男。密勅返上に反対して長岡に屯集したひとり。 有賀半弥ら同志14名とともに文久元年(1861)5月東禅寺英国公使館を襲撃。捕縛 をのがれて、京都にはしり、尾上菊次郎と名乗って尊攘の志士とまじわる。文久3年 (1963)8月、天誅組の義挙に参加したが大和古市において津藩の兵に捕えられ、 元治元年(1864)2月16日、斬罪に処せられた。享年23歳。 もののふの やまとの心を人とはば 国のあらしに散るぞうれしき
水戸藩士は、桜田門外の変、坂下門外の変、天誅組の変、天狗党の変などに参画、 参加し多くの戦死者を出しているとおり、幕末維新にかけて最も死者を出した藩といいます。
現在の東禅寺の寺域は当時に比べ縮小し、建物の多くも失われているそうですが、公使館 員の宿所となっている「僊源亭(せんげんてい)」やその前の庭園などは良好に残ってい ます。庭園に僊源亭を含めた景観は、公使館時代にベアトが撮影した古写真の風景を今に 伝えています。幕末期の米・仏・蘭などの各国公使館に当てられた寺院は大きく改変さ れ、東禅寺が公使館の姿を伝えるほぼ唯一の寺院であることから国史跡に指定された。
平成24年3月建設
東京都教育委員会銘版より
池泉庭園や僊源亭など非公開なのが残念でしたが、高輪は寺院の多い地で、次の 機会には、泉岳寺や承教寺、高野山東京別院などにも朝の散歩に出かけたいと思いました。
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