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ザ・戊辰研マガジン

2021年09月号 vol.47

米沢藩の志士

2021年09月06日 17:53 by norippe
2021年09月06日 17:53 by norippe

 山形県米沢市は今から40年ほど前に仕事で何度か行ったことがあった。
 福島市から国道13号線を通って行くルートであったが、今は自動車道が開通して楽に行くことが出来るようになった。40年前はそう簡単に行くわけには行かなかった。特に冬の13号線、雪が吹雪く栗子峠はとても恐ろしかった。栗子トンネルがなかった時代は困難を極める道路だったのではないかと思われる。

 三島通庸が初代山形県令の時に栗子トンネルを掘る事になったのだが、その時、困難な工事に人足が集まらず困っていたが、米沢藩士の斎藤篤信が私財を投げ売って800人という大勢の人足を集め、多大な貢献をしたのである。
 斎藤篤信は戊辰戦争の際、中隊長、大隊長、参謀となり、長岡城での奪還では精力的に戦い、降伏後は官軍に対する米沢藩の交渉役となり、その後、初代の山形県師範学校校長を務めた人物である。

 米沢藩でよく知られている人物というと上杉鷹山。極端な財政難と政治腐敗で藩政が破綻寸前だった米沢藩を立て直した人物である。テレビの歴史番組でもよく取り上げられる上杉鷹山。それほど鷹山の成した藩政は偉大なものだったのである。アメリカのジョンFケネディは日本で一番尊敬する人物は上杉鷹山だといった都市伝説もある。
 やっと立て直った米沢藩に、今度は幕末という苦難の時代がやって来たのだ。



上杉神社(米沢城)

 慶応4年1月、戊辰戦争が勃発すると、秋田・盛岡・仙台諸藩とともに、新政府から会津藩征討を命ぜられた。この時の米沢藩主は上杉斉憲。その斉憲は仙台藩主伊達慶邦らと奥羽十四藩を白石城に集め協議し、会津藩主松平容保に対する赦免を奥羽鎮撫総督に嘆願した。だが、それが却下されたため、奥羽越列藩同盟を結成し指導的役割を果たした。

 幕末の動乱時には藩規模の大小に関わらず、多くの藩で尊皇派と佐幕派による権力闘争が行われたのはよく知られる話である。思想による対立ではあるが、単に政争の具として利用された藩の方が多かったのではないだろうか。藩内の与党的存在である門閥重臣派は今までの体制が続いた方が、自分達の利権が継続するので幕府を支持して佐幕派になり、逆に重臣達により藩内の野党的存在に追いやられている軽輩達が、重臣達から権力奪取を目指して、尊王を掲げたというのがおおまかな見解ではないだろうか。

 米沢藩は、中規模の藩にも関わらず、その尊皇派と佐幕派の対立が無かったのが大きな特徴だったかも知れない。寛文年間に会津藩に危機を救ってもらった事や、世子茂憲の正室が会津藩主松平容保の兄弟と言う関係から義を感じ、会津討伐に反対し戊辰戦争に参戦した。

 米沢藩は会津戦争の前に新潟で官軍との激戦を繰り広げた。幕末の政情不安の時に新潟港を中心として全面的な治安維持を図ったのである。
 河井継之助が率いる長岡藩は一度落城するが、米沢藩が大きく関わったおかげで長岡城奪還に成功するのである。その時米沢藩は280名以上の戦死者を出し、そしてふたたび落城し、米沢藩は戦いの勝負はあったと判断し新潟から撤収したのである。
 会津に援軍を送らず、というより、送っていたなら会津同様総攻撃を受け、米沢も壊滅状態になっていただろうと思われる。刀や弓で戦う戦国時代とは全く違う近代戦の破壊力を目の当たりにし、官軍の軍備の違いを大きく感じた米沢藩は、戦いを継続不可と判断したのである。
 同年9月、藩主上杉斉憲はいち早く新政府軍の軍門に降り、斉憲の嫡男である茂憲が会津征討に参戦した。戦争終結後、斉憲は12月に隠居を命ぜられ4万石を没収されたが、そのあとは嫡男茂憲が家督を相続し、明治2年に版籍奉還し、同4年、廃藩置県を迎えた。

 米沢には先に栗子トンネルで話をした斎藤篤信という藩士がいたが、幕末から維新期にかけて活躍した志士がいた事をご存じだろうか。米沢生まれの雲井龍雄である。米沢藩士中島惣右衛門の次男として米沢に生まれた。小さい頃から勉学に優れていた龍雄は、14歳から藩校「興譲館」に学び、22歳で米沢藩の江戸藩邸に出仕。そのかたわらで安井息軒の三計塾に入門し、さらに学びを深めていった。その中で全国から集まった塾生と交友を広めると共に、時勢に目覚め、日本の将来を真剣に考えはじめたのである。
 幕末の混乱期には米沢藩の命を受け帰藩、そしてその後京都で活動。その中で薩摩藩の横暴を目にした龍雄は、戊辰戦争中に薩摩藩を批判した漢詩「討薩檄」でその非を唱えた。それが奥羽越列藩同盟の精神的な支柱となったのである。
 戊辰戦争終結後、龍雄は米沢藩の推薦を受け新政府の集議院に勤めるが、戊辰戦争中の言動などが仇となって、ひと月足らずで集議院を追われてしまったのである。 それでも自分の信念・理想を貫いた龍雄は、政府に不満を持つ人々を集め「帰順部曲点検所」を組織し、新政府に対抗しようとするのだが、この行動が政府への陰謀とみなされ逮捕。27歳で刑死となったのである。

 また米沢藩を守った家臣に上杉家の色部長門がいる。戦争責任の汚名を一人被りこの世を去った家臣なのである。
 戊辰戦争で米沢藩は、奥羽越列藩同盟の盟主として越後方面の警備を担当、その時の総督が色部長門で藩兵約600を率い出陣した。本陣を関屋(新潟市)に置き、戦略上の要地である新潟港の管理にあたる一方、前線の指揮にあたったのである。
 しかし、戦況は次第に新政府軍が優勢となり、色部の守る新潟港にも薩摩藩の大軍が攻め込んできたのである。このため色部総督は、同盟軍に解散・帰藩を命じ、自らは最後に出発したのだが、その撤退の途中で薩摩軍と遭遇。ここで逃げれば米沢藩の名誉にかかわると、敵の大軍に斬り込み壮絶な戦死をとげたのだ。慶応4年年7月29日、44歳であった。
 戊辰戦争の終結後、米沢藩へは藩主斉憲の隠居と4万石の召し上げの処罰が下され、戦争首謀者の調査が命じられた。米沢藩はこの命令に苦慮し、すでに戦死した色部を届け出た。仙台・山形藩は家老を届け出て斬首の極刑に処されたが、米沢藩では届け出た戦争首謀者の色部長門が死亡していたため、米沢藩では処刑者は出なかった。しかし色部家は罪を負って断絶となったのである。

 米沢藩に山吉源右衛門という軍隊長がいた。そして山吉が率いる軍隊は、海から上陸して磐城平藩に攻めこもうとする新政府軍に立ち向かうため、磐城の平城へ軍を進めた。
 慶応4年6月29日の午後、新政府軍の佐土原藩と備前岡山藩の部隊が磐城平の南西、長橋口に攻め寄せ、激しく撃ちかけてきた。これに対し、奥羽越列藩同盟軍も応戦。しかし夕刻、新政府軍が兵を引き、戦いは引き分けに終わった。第一次磐城平の戦いである。 そして、この日の夜遅く、米沢藩の山吉源右衛門が率いる援軍が磐城平城に入った。
 翌日の7月1日、早朝から磐城平は新政府軍の攻撃を受けた。第二次磐城平の戦いである。山吉は休みも取らず、部隊とともに菩提院町や新川町の戦場に向い、大車輪の活躍を見せた。米沢藩の隊長、山吉源右衛門は槍を振りかざして、部下を指揮し、一歩も退かず、「進め、進め」という声が砲声の合間に聞こえた。その勇猛さは、まさにあっ晴れのひと言、隊長の器量を備えた人物だった。
 ところが、戦いの最中、一発の銃弾が飛んできて、山吉の胸板を貫通した。山吉はかなりの重傷で、ただ息をしているだけだった。
 山吉の傍らには16歳ぐらいだろうか、山吉の息子の源蔵がいた。源蔵が泣き崩れるさまは目にするのも辛かった。その後、間もなく山吉が息を引き取った。
 その後、磐城平藩は勇敢に戦った山吉源右衛門の亡骸を、米沢まで送り届けることにしたのである。

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