戊辰戦争研究会のインターネットマガジン「戊辰研マガジン」発刊20号、誠におめでとうございます。 私は、「戊辰研マガジン」の17号から記者として参加させて頂いております。私の92歳になる父親は、会津若松市出身で、「鹿目家は会津藩の武士だったので誇りを持って生きなさい」と私が小さい頃から私に対して口癖のように言っておりました。私は小学四年生から六年生まで父親の勧めで剣道を習っておりました。そういうわけで、私は、会津武士道をほんの少しだけ体験して育ちました。その後、私は年齢を重ねるたびに、自分の体の中の会津の血に目覚めていき、2011年に初めて福島県勤務となり、以降、五年半単身赴任生活をする中で、家族が住む調布の自宅に帰宅できない合間をぬって、会津を度々訪れ、戊辰戦争の足跡や会津藩に関係する遺構を少しずつ訪問して参りました。この間、会津若松市で開催された星亮一先生の講演は二回拝聴しました。戊辰研マガジンの17号からの私の投稿は、これまで私が訪問してきた会津の遺構を少しずつ紹介して参りました。
さて、記念すべき「戊辰研マガジン」発刊20号にふさわしい題材は何かと思い、やっぱり誰もが知っていて誰もが訪れている会津藩、戊辰戦争のシンボル『會津鶴ヶ城』について、投稿したいと思います。
會津鶴ヶ城は、至徳元年(1384年)にその前身ともいえる東黒川館を葦名直盛が築いたのがはじまりと言われ、代わって黒川城に入ったのは蒲生氏郷です。蒲生氏郷は、1592年(文禄元年)より大名に相応しい近世城郭に改造し、城下町を整備した。蒲生氏郷は、町の名を黒川から「若松」へと改め、蒲生群流の縄張りによる城作りを行った。なお「若松」の名は、出身地の日野城(中野城)に近い馬見岡綿向神社(現在の滋賀県蒲生郡日野町村井にある神社、蒲生氏の氏神)の参道周辺にあった「若松の杜」に由来し、同じく領土であった松坂の「松」という一文字もこの松に由来すると言われている。 1593年(文禄2年)、望楼型7重(5重5階地下2階とも、また7重には「何段にも重なる」の意味もある)の天守が竣工し、名は「鶴ヶ城」に改められた。近年の発掘調査で蒲生時代の石垣の基底部が確認され、鐙瓦(軒丸瓦)、宇瓦(軒平瓦)、鬼瓦の一部に金箔が貼られたものが出土している[1]。 1598年(慶長3年)、氏郷の子・秀行は家中騒動のために92万石から18万石に下げられ下野国宇都宮に移封された。越後国春日山より上杉景勝が120万石で入封。1600年(慶長5年)、徳川家康は関ヶ原の戦いで西軍に加担した景勝を30万石に下げ、出羽国米沢に移封した。 翌1601年(慶長6年)には蒲生秀行が再び入城したが、1627年(寛永4年)、嫡男の忠郷に嗣子がなく没したため、秀行の次男・忠知が後嗣となり伊予国松山に移封された。代わって伊予松山より加藤嘉明が入封。子の明成は西出丸、北出丸などの造築を行い、1611年(慶長16年)に起きた会津地震により倒壊した天守を今日見られる層塔型天守に組みなおさせている。1643年(寛永20年)、加藤明成は改易され、出羽国山形より3代将軍徳川家光の庶弟である保科正之が23万石で入封。以後、明治維新まで会津松平家(保科氏から改名)の居城となった。
戊辰戦争では約1ヶ月に及ぶ激しい攻防戦に耐えた難攻不落の名城として、その名を天下に知らしめました。明治7年に石垣だけ残して取り壊されましたが、たくさんの方々の寄付により昭和40年9月に再建されました。平成13年には天守に続く建物「干飯櫓・南走長屋」が江戸時代の工法・技術を用いて復元されました。天守の内部は博物館となっており会津の歴史に触れることができます。平成23年には「赤瓦」へのふき替えが完了し幕末当時の姿を再現し、現存する天守閣では国内唯一の赤瓦の天守となっています。鶴ヶ城公園内は約69,000坪の敷地があり国の史跡に指定されています。
美しい四季折々の「會津鶴ヶ城」の写真集。
【天守閣から望む飯盛山】
【天守閣から望む小田山】
【天守閣から望む會津鶴ヶ城城内跡】
【會津鶴ヶ城城内「御三階」跡地】
【廊下橋】
廊下橋は二ノ丸から本丸へ渡る橋です。加藤明成の大改修まではここが大手口でした。葦名時代には屋根のついた廊下造りだったので、廊下橋と呼ばれました。
【北出丸】
「北出丸」は、1939年加藤明成のときに馬出を出丸に整えたもので、城の大手口を守る重要な場所です。ここに侵入した敵は、東西そして南の三方から攻める事ができるので「みなごろし丸」とも呼ばれました。
【鶴ヶ城内の松平容保公の写真】
【鶴ヶ城内の秋月悌次郎の解説】
【鶴ヶ城内の山川健次郎の解説】
【鶴ヶ城城内の松平容保公の桜】
【鶴ヶ城城内の大河ドラマ「八重の桜」主演の綾瀬はるかさんの桜】
【我家の家宝・會津鶴ヶ城再建五十周年記念・会津塗お箸】
【私が所持している會津鶴ヶ城・書籍類・チラシ等】
【戊辰戦争前の會津鶴ヶ城鳥瞰図】
【番外編】蒲生氏郷時代の鶴ヶ城
蒲生氏郷時代の鶴ヶ城は、なんと七層の天守閣で壁は真っ黒だったそうです。
【こぼれ話】
私の家族四人で、初めて鶴ヶ城を訪問した際、城内の戊辰戦争戦死者の名前が掲示されていたところで、私の娘が「鹿目という姓名の人が三人も掲載されている」と見つけました。やはり鹿目家は会津藩の武士として戊辰戦争を戦って戦死しておりました。同じ姓名を見つけた娘はとても驚くと共に武家の血筋であることを喜んでおりました。
【記者 鹿目 哲生】
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