その四十六 鉢形城に行ってみた
埼玉県北部の寄居町に戦国時代の城跡がある。5月のある日、この鉢形城を歩いてきた。
毎年5月には「北条まつり」が行われ、賑わいをみせるそうだが、この時は平日でもあり、閑散としていた。
鉢形城は文明8年(1476)長尾景春が築城した。長尾氏は関東管領・上杉氏の家宰の家柄である。長尾家の跡継ぎ問題から景春が鉢形城を拠点に反乱を起こした。しかし、長尾景春は太田道灌に破れ、その後鉢形城には関東管領・上杉顕定が入った。
1560年、小田原の北条氏邦が鉢形城主となり、ここでは上杉謙信との攻防もあった。「北条まつり」は北条氏邦を偲ぶ祭りである。
昭和7年には国指定史跡となった。現在は鉢形城公園として整備されている。
物の本によれば、戦国時代の城は天守閣などなかったそうで、鉢形城も地味な城跡である。
荒川沿いに天然の要害を利用して築城された鉢形城は、本曲輪、二の曲輪、三の曲輪などが深い堀で区画されている。季節には桜も咲いて良い散策コースになるだろうと思われるが今は何もない。
荒川・玉淀河原の崖の上に本曲輪がひときわ高く、ここに立つと荒川の向こうに寄居の町が展望できる。はるか昔のご先祖たちの戦いに思いを馳せる。戦場となった村の人々には迷惑だっかもしれないが。
実は、同じ時代の城跡には馴染みがある。故郷栃木県の祇園城(小山城)は、鎌倉時代からの名門小山氏の持城であった。戦国時代には北条氏に破れ、その配下にあった。
城山公園として市民に親しまれており、家が近かったこともあり、子供の頃にはよくチャンバラごっこなどして遊んだものだ。
祇園城跡は中世の城跡としては掘割が比較的残されているらしい。しかし、赤土むき出しの掘割は子どもたちの格好の遊び場であった。どろんこになって駆け回ったり滑ったり、貴重な史跡を踏み荒らし削り取っていたのだ。
祇園城は鉢形城と同様に市街地の外れを流れる思川の要害を利用して築城された城である。川の流れをはるか眼下に見下ろす鉢形城跡の曲輪は、故郷の城山を彷彿とさせ、なつかしさがこみ上げてくるのだった。
その四十七 うしろ姿にはご用心
自分のホームページを持っている。仲間うちで遊びに行った時には写真をのせることも多い。
見る人の少ないホームページではあるが、顔が出るのを嫌がる人もいる。そんなわけで、同行者のうしろ姿の写真が多くなる。
先日、私のホームページの写真の中に自分のうしろ姿を発見し、その年老いた姿にショックを受けたという友人がいた。確かに、男性など自分のうしろ姿を見ることなどめったにないと思う。
30年近く前、40代そこそこでまだ若かった頃の事である。
時間があると、よく新宿駅東口の紀伊国屋書店に行った。ここは1階から6階まで分野別に書籍が並んでいる。
地下鉄の改札を出て1分も歩くと、地下2階に紀伊国屋書店のエレベータがある。これで最上階まで行き、そこからエスカレータで下りながら各階の本を眺めながら歩くのが楽しみだった。
このエレベータには珍しくエレベータガールがいて、目の前のモニタを見ながらドアの開閉操作をしている。モニタには次の階のエレベータホールの様子が映っているのだろうと思っていた。
なんとなくエレベータガールの肩越しにモニタを覗いてみる。ホールの斜め上から撮影した映像にはエレベータを待っている人のうしろ姿が映っている。
その中に後頭部がまあるくハゲた頭があった。
「あーあ、映っちゃってるよ。それにしても、お見事。」
「でもまあ、知らぬが仏だね。」
などと思っていた。
何度かエレベーターのドアが開閉した。ふとモニタを見ると、まだ同じハゲ頭が映っている。
「えっ?どこ映してんの?」
「※?△?♪§!」
「あっ!!」
この時の衝撃は忘れられない。
うしろ姿にはご用心。
(大川 和良)
2024年春季号 vol.5
今年は3月後半が寒かったせいか、例年より桜の開花が遅くなっておりましたが、全国…
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