木戸孝允(桂小五郎)が今井町に泊まった! かつて「大和の金は今井に七分」といわれるほど繁栄した町。現在も五百軒もの町家 が連なります。重要伝統的建造物群保存地区 なら・かしはら「今井町」
今井町の成立は戦国の世、天文年間(1532~1555)この地に一向宗本願寺坊主の今 井兵部卿豊寿によって寺内町が建設されたことに発しています。 一向宗の門徒が、今井に御坊(称念寺)を開き、自衛のため武力を養い壕をめぐらし た。
浄土真宗本願寺派 称念寺
環濠跡地・伝織田信長公本陣跡
永禄11年(1568)織田信長が足利義昭を擁して上洛以来、本願寺も反信長の旗を立 て、寺を中心に城塞都市の形態を整え、抵抗したが天正3年(1575)今井氏は今井宗 久、津田宗及、明智光秀を通じて信長に降服し、事なきを得、信長から赦免の朱印状 が今井郷に下 され、「万事大阪同前」として自治特権を許されました。その後、大阪や堺などとも 交流が盛んになり商業都市として変貌をとげ、江戸時代には南大和最大の在郷町と なって、今井札(銀札)を発行するまでに栄えました。~今井町の歴史より~
来年のNHK大河ドラマは「明智光秀」ですね。橿原市史には、信長の命を受けた 明智光秀・筒井順慶の軍は曽我(今井の近く)に布陣して今井を攻撃牽制したとある も信長が今井に来たということは書かれていません。信長公記には書かれているのだ ろうか? いずれにしても、この歴史が大河に取り扱われていることを願うばかりです。
今井町には、自宅から車で10分以内と近いこともあって、これまで何度も訪れていま す。 今から5年前の2014年9月には拙ブログに4回に亘り今井町紹介の投稿をしています。
さて、戦国から幕末維新に移りましょう。 皆さんは、桂小五郎がここ今井町に来て泊った事をご存知だったでしょうか? 私も気が付きませんでしたが、数ある町家の中でも、重要文化財指定9軒、県指定文 化財3軒、計12軒の中に「山尾家住宅」の説明板に、木戸孝允(桂小五郎)、三条実 美卿が宿所としたと書かれているではありませんか。ということで、早速、「山尾 家」を訪問してまいりました。
「山尾家」は近隣の十市郡新堂村より移住したと伝えられ、「新堂屋」の屋号で、 肥料、木綿商を行い、幕末には両替商もあわせて営み、町年寄を勤めた大商家とあり ます。 また、天明八年(1788)、と天保九年(1838)の両度に幕府の巡見使が当家に宿泊し ていることから当家が今井の町人の上層に位置していたことが判ります。
また、明治10年明治天皇行幸の際、太政大臣三条実美、木戸孝允(桂小五郎)の宿泊 所にあてられ、それらの資料も数多く保存されていると書かれています。 山尾家は今井まち衆博物館を兼ねていますが、個人の住居として暮らしてられますの で、事前の連絡が必要で見学有料(400円)となっています。?0744-23-9478
座敷に上がっていきなり奥の上段の間が目に飛び込んできます。この部屋が巡見使や 三条公、木戸孝允らが泊った部屋なのでしょう。 但し、このまま上段の間に上ることは出来ません。ご覧のようにお抹茶(お菓付)別 途500円となっています。勿論、こちら側からも見ることが出来、蔵を利用した資料 館で数々の展示物を見学することも出来ます(400円)。
幸い、私はYSBでお世話になっていますO先生とご一緒の訪問でしたので、むしろ 贅沢でお得なティ-タイムとばかり、喜んで上げて頂きました。山尾家の奥様の説明 は大変解りやすく、私達二人きりの拝観でしたので、二条城の形を模倣したもので狩 野派の絵師が描いた襖がある上段の間で、抹茶とお菓子をいただきながらおよそ1時 間以上もの今井の歴史や幕末談議となりました。 この部屋には桂小五郎直筆の書が架かっていました。
人在春風忘喜温
松菊 当家の人は春風のような温かい人達なので火鉢の温かさを忘れてしまうほど良い方に めぐり会いとて自分はそれを喜んでいると詠んだものだと説明を受けました。 隣の部屋は床の間付きの立派な部屋からして、三条公など公卿や巡見使が泊られた部 屋なのでしょう。 こちらの部屋には実則(さねつね)書の軸が掛かっていました。
かしこしな ためしまれなる詔うけて 畝傍の山に今日は来にけり
実則 徳大寺実則:幕末から明治期の公卿・官僚。宮内職、内大臣、明治天皇の侍従長等を 務めたとあります。彼もまた、明治10年2月10日にこの部屋に泊まったのだろうか?
或いは神武天皇陵の山稜調査に来たのだろうか?
木戸孝允日記第三の明治10年2月10~11日の項を読んでみると。
10日 雨終日細雨九字 行在所ヘ参向同三十分 御發輦横田驛にテ奥野耕平二階堂駅 ニテ片岡安平方にテ御小休一字五十分田原本ヘ 着御常照寺にテ御昼食被為済二字三 十分 御發輦四字過今井村え着御行在所は稱念寺なり余は田原本にテ松井半七方にテ 中飯を食せり~以後略~
要約すると、明治10年2月10日は終日細雨。明治天皇、木戸孝允ともに隣村の田原本 にて昼食をとり夕刻4時過ぎに天皇は今井村称念寺に入り、木戸は山尾常太郎の家に 投宿したとあります。
その間に薩摩で容易ならざる騒動が起こったとの電報が入り、 土方久元を京 に返させ、還幸中故、後の善後策は三条大臣、岩倉大臣、伊藤参議などに任せる旨の 書類を槇村正直まで送れりと書かれています。
そういうことなら、三条大臣は今井には来ていなかったのでは?どうなのでしょ う。?
ともあれ、水琴窟や紅梅がある庭も当時の状態で残されています。 今井まち博物館としている蔵の二階にも多くの古文書や資料などが残されています。
丸岡莞爾(まるおかかんじ)1836-1898 幕末・明治期の官僚、歌人。
土佐藩士、吉村三助の長男として生まれ、鹿持雅澄から国学を学び、坂本龍馬とも交 際したとある。
明治8年(1875)式部権助に就任。明治9年(1876)9月、式部寮に転 属。
式部助となる。私の勝手なる推測ですが、明治天皇行幸の前に下調べに来たのではな いだろうか?
いやはや面白い町家でした。大阪あそ歩でガイドをされている結城詩さんも言ってま す!
今年から奈良もコ-スに入れるそうです。特に奈良の恩人川路聖謨関連の奈良市内、 郡山城下町、それにここ今井町をガイドコ-スに考えておられます。楽しみですね♪
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