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ザ・戊辰研マガジン

2019年09月号 vol.23

【先祖たちの戊辰戦争・九】水原(すいばら)、出雲崎

2019年09月05日 00:19 by tange
2019年09月05日 00:19 by tange

 私の高祖父・鈴木丹下は、慶応4年(明治元、1868)3月22日、水戸から逃れてきた諸生党一派を案内し、会津坂下から越後の水原へ向かった。諸生党を率いるのは水戸藩家老・市川弘美だった。
 幕末、保守門閥派の諸生党は、改革派の天狗党と水戸徳川藩内で対立していた。この1月、諸生党に対する追討命令が朝廷から出されると、市川勢は水戸から会津藩を頼って会津坂下まで進んで来た。ところがその時、新政府に対して和戦両様で構えていた会津藩は、彼らの入国を許可したが若松城下での滞在を認めなかった。そのため丹下が、会津藩の預かり領になった水原まで案内することになった。会津藩は、500人とも言われた市川勢の水原までの宿泊費などを、全て負担したという。
 
 丹下が市川勢を案内して水原へ向かう直前の3月10日、幕府は水原地方の天領を会津藩の預かり領とした。そこで同藩は、奉行として萱野右兵衛を任命した。右兵衛は藩家老・萱野権兵衛と先祖を同じくする一族だった(『水原町教育沿革綱要』)。
 丹下は、藩の公用として市川勢を案内して来たので、水原に着くと直ぐ代官所に赴き、奉行の萱野右兵衛と会い報告していた。実は、丹下は萱野権兵衛の実弟で、鈴木家に養子として入っていた(明治学院発行『井深梶之助とその時代』)。
 この水原代官所での右兵衛と丹下は、同じ萱野一族で大いに話がはずみ、後の出雲崎での企てについても念入りに話し合われていたに違いない。そんな想像が膨らむのである。


水原代官所(平成7年復元)

 延享3年(1746)、幕府直轄領を支配するため水原城館跡に代官所が設置された。その支配高は6万から10万石であった。慶応4年3月に会津藩預かり領になった後、侵攻して来た新政府軍に同藩が撃退されたことにより、同年7月、代官所は122年の幕を閉じた。
 跡地には水原小学校が建てられ、明治、大正、昭和の三代に亘り、多くの人材を世に送り出した。小学校の移転に伴い、平成7年、代官所が復元され公開されるようになった。
 私は、代官所の内外をかなりの時間をかけて見学した。古文書や古図面が残されていたなどの復元根拠は一般の見学者には示されていないが、とても良く出来ていると思った。幕府直轄領における代官所は、現在の税務署、警察署、裁判所、市町村の役所を併せていたようなところで、それら複雑な機能を中庭のある平面計画がうまく処理していたとの印象を受けた。
 
 水原代官所近くの瓢湖を訪れた。6月下旬の時季、白鳥の渡来も水面の開花も無い瓢湖は、とても寂しかった。


水原・瓢湖

 「出雲崎町史」に次のような記述がある。

 『市川勢は坂下から水原を経て、四月八日新潟へ着いた。水原までの宿泊費等は会津藩が支払ったという。十四日に新潟を出立して十六日には寺泊に宿陣した。出雲崎に入ったのは衝鋒隊出発の翌日(四月十七日)であった』

 4月17日、出雲崎に入った諸生派の人数は380余人だった(『出雲崎町史』)。水戸を脱藩した時の人数500余人(『出雲崎町史』)が、なぜ減ったのかは分からない。


出雲崎

 当初私は、丹下が諸生派を案内してきたのは水原までと考えていた。和戦の何れかを決めかねていた会津藩としては、反新政府の諸生派が会津領に留まるのは迷惑なので、とにかく出て行ってもらいたかった。そこで、水原までの多人数の宿泊費などを負担までし、彼らを越後へ追いやった。つまり、丹下の役目は水原で終わっていたはずだ。
 「出雲崎町史」に戻ると、次のような記述があった。

 『五月十日に佐渡から引き揚げた水戸衆というのは、軍用金を得るために、閏四月五日に会津藩士鈴木丹下の案内で佐渡に渡った市川勢の筧助太夫の一隊約七十人のことである』

 この文章をそのままに読むと、丹下は閏4月5日に佐渡へ渡ったことになる。しかし、先に述べた会津藩の立場で考えると、丹下を何も佐渡まで行かせる理由が無い。彼が佐渡への渡海に特別精通していたとも思えない。
 さらに「村松町史」に拠れば丹下は、4月23日の昼過ぎ、村松藩老・堀右衛門三郎宅にいて、日暮れごろ五泉へ出立している。その10日余りの後、彼は再び出雲崎に入ったのであろうか。
 その時、奥羽列藩同盟に長岡藩を初めとする越後諸藩を加盟させる交渉が盛んに行われていた。藩外交の一端を担っていた丹下に、出雲崎に戻り佐渡へ渡る暇などがあったとは思えない。どうも不可解である。
 閏4月5日に市川勢の一派が佐渡へ渡っていたかを検証する必要がある。そのために、佐渡島側の史料を探した。
 「佐渡相川の歴史通史編・近現代」に次のような記述を見つけた。

 『彼ら(市川勢の一派)は、(佐渡)奉行の乗って来た船に乗り込んで(出雲崎を)出航し、四月二十六日に(佐渡の)小木と赤泊から上陸して河原田の屯所に入った』

 この一文から、市川勢の筧助太夫らが佐渡へ渡ったのは4月26日であることが、はっきりした。
 先に述べたように丹下は、4月23日夕方、村松から五泉に向かい、そこの会津藩屯所に宿泊している。その二日後の26日に佐渡へ上陸するなど時間的にあり得ない。
 ただし丹下は、軍用金として佐渡島の金銀を会津藩へ逸早く回収する任を帯びていたと、やはり「佐渡相川の歴史」に記されている。
 徳川政権崩壊後、薩摩、長州の両藩は、佐渡島の金銀に目をつけ、それを軍用金や新政府の運営資金に充てようとした。他方、京都守護職時の膨大な出費などで逼迫していた会津藩も、薩長軍が佐渡島を占領する前に金銀を押さえる必要があった。そのため、丹下に出雲崎出張を命じた。
 丹下は、水戸諸生派を会津領から追い払う任務と当時に、彼らの力を利用して佐渡から金銀を収得する任務も与えられていたのだ。
 4月17日、出雲崎に入ると直ぐ、丹下は市川弘美に金銀の回収を依頼する。そこで、市川配下の筧助太夫の一隊が、会津藩士を装って佐渡へ渡ることになる。
 その後、丹下は出雲崎を離れ村松へ向かう。これで彼の一連の行動に矛盾無く説明が付き、出雲崎の地を踏んだ理由も明らかになった。
 佐渡に渡った市川勢一派は、そこに40日余り滞在するが、中立を貫く佐渡奉行所に振り回され目的を果たせず、「出雲崎町史」に記されたように、5月10日、佐渡から引き揚げた。
 鈴木丹下が佐渡へ渡ったとする「出雲崎町史」の記述を、間違いと早計に断じることは出来ない。しかし私は、市川勢一派の佐渡への渡海について、「佐渡相川の歴史」の記述がより具体的で真実に迫っているように思えた。
 ともあれ丹下は、間違いなくここ出雲崎の地を踏んでいた。
 丹下の訪れた代官所は、出雲崎の西の端、少し高台にあった。そこからは、佐渡島も日本海とそこに沈む夕日も見えていたに違いない。
 今では海岸沿いに架けられた道路橋に視界が遮られ、戊辰の景色は無い。


出雲崎代官所跡・石碑

(平成30年6月・27年7月、鈴木 晋)


(次回は、鈴木丹下の岳父・小野権之丞が、奥羽越列藩同盟の確立を期し、往来した米沢、白石、仙台についてです)





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