幕末京都における最強の剣客集団・新選組。
戊辰研のメンバーであれば、その名を知らない人はいないと思われる。評判は良いもの/悪いものが混淆するが、大河ドラマ(2004年)に取り上げられたり、子母澤寛や司馬遼太郎の小説、『薄桜鬼』や『刀剣乱舞』などのサブカル作品とコラボしたりと、知名度は決して低くはない。2018年大晦日のNHK紅白歌合戦では、擬人化された土方歳三の刀「和泉守兼定」と「堀川国広」が、刀身を光らせながら歌って踊るパフォーマンスを披露していたほどだ。戊辰戦争150年、もし土方本人が紅白歌合戦を見ていたなら、浮世も大きく変わったとの感想を禁じ得ないだろう。
時代劇が大好きだった祖父の影響で、新選組には何かと愛着がある筆者。そんな筆者が居を構える京都市下京区は、市内でも「新選組遺蹟」が特に集中している地区である。
自宅から徒歩10分圏内に、壬生寺、八木邸/前川邸(旧屯所)、西本願寺(旧屯所)、不動堂村跡(旧屯所)、島原遊郭、天満屋騒動之跡、木津屋橋事件跡(伊東甲子太郎絶命の地)、北小路事件跡、油小路事件跡などがあり、新選組の歴史を辿るには事欠かない。最寄り駅の1つには「新選組のまち」という看板が掲げられており、もはや地区をして新選組を推しているといっても過言ではない。
そこで今回は、当該看板が掲げられている阪急大宮駅近隣の新選組遺蹟で、日々多くの新選組ファンが訪れている壬生の新選組屯所跡にある碑文を見ていきたいと思う。 戊辰研からは新選組関連の史蹟巡りの書が発刊されており、先人たちの筆がある中、屋上屋を架することもないとは思うが、しばしお付き合いいただければ幸いである。
大宮駅から南西に10分ほど歩くと、ほどなくして壬生界隈に到着する。
「壬生」(みぶ)という地名は「水辺、水生」に由来し、水が豊富な場所であることを意味する(実際、壬生周辺は元々湿地帯だった)。江戸から上洛してきた初期の新選組、いわゆる「壬生浪士組」が当地に屯所を構えた理由は、将軍警護の目的から二条城に近い場所で都合が良かったためとされる。
最初に屯所が置かれた八木邸は現在一般公開されており、1,000円の拝観料を納めれば内部に入ることができる(30分程度の解説、壬生菜の入った「屯所餅」と抹茶のセット付き)。八木邸の中でも、芹沢鴨をはじめとする水戸派が母屋に入居し、近藤勇をはじめとする試衛館派は離れの方に入居したとされている。離れの方は現在和菓子屋として営業しているが、母屋の方は「京都市指定有形文化財」として往時の名残を今によく留めている。
【八木邸:門の奥に母屋があり、右手の建物が離れ(和菓子屋)である】
和菓子屋の入り口付近に、1つの石碑がある。石造りのそれは直方体の形をしていて、4面には「東:新選組遺蹟、北:京都市教育會、南:昭和六年七月」と書かれており、西側のみ何も書かれていない。南西方向の一辺の中ほどが一か所削り取られ、修復された跡があるが、その経緯はわからなかった。昔は石碑の接地部分に砂利が引かれており、「新選組遺蹟」の「蹟」の部分までが明確に判読できたものの、現在は生い茂る草によって文字の半分が隠れてしまっているのが少し残念ではある。
そして、石碑から少し離れた、八木邸の母屋へと向かう石畳の左脇に2枚の説明板が設置されている。1つは「新選組発祥の地(八木邸)」、もう1つは「八木家住宅」と記されているので、今回はこれらの説明板に記された解説を本稿の分析対象としたい。
まずは「新選組発祥の地(八木邸)」の説明を見ていくことにしよう。
新選組発祥の地(八木家) ここは、幕末の頃、京都の浪士取締りや治安維持に活躍した新選組の屯所があったところである。 文久三年(一八六三)春、第十四代将軍、徳川家茂の上洛警護のため、清河八郎率いる浪士組が入洛したが、その宿舎の一つとして使われたのが、当時壬生村の郷士宅であった八木家の屋敷であった。清河ら浪士組のほとんどは、在京二十日余りで再び江戸に戻ったが、当所に分宿していた芹沢鴨、新見錦、近藤勇、土方歳三らは、引き続き京都の警備のため残留し、京都守護職 松平容保(会津藩主)の配下に属して新選組と名のった。 当初、新選組は、当屋敷に「新選組屯所」の標札を揚げ、隊士はわずか十数人であったが、次第に隊士が増え付近の屋敷にも分宿した。以後、市中の治安維持に勤め、元治元年(一八六四)の池田屋事件では、クーデターを起こそうとしていた過激な長州藩士らの一派の計画を未然に防ぎ、一躍その名を洛中に轟かせた。 翌年の慶応元年(一八六五)四月、新選組屯所は西本願寺に移され、翌年には更に南の不動堂村(京都駅北西)に移り、鳥羽・伏見の戦いの直前には伏見奉行所に入った。 京都市 |
冒頭に「新選組発祥の地」と書かれているが、これはつい疑問を抱いてしまう説明である。なぜなら、どこを「発祥の地」とするかは、時期によって異なるからである。
新選組は、文久3年(1863年)2月に将軍上洛の警護を目的として、江戸で結成された「浪士組」を前身としている。京都に到着後は、浪士組から離れて同年3月に「壬生浪士組」(精忠浪士組とも)を結成、同年8月の八月十八日の政変の働きぶりを会津藩主・松平容保公から評価されて「新選組」の名を拝命する。新選組という名前を配した時には、芹沢や近藤らは壬生に分宿していたため、前身の浪士組や壬生浪士組の存在を一切考慮しないのであれば、八木邸は「新選組」の発祥地といえなくもない……気もする。この説明は京都市が設置している説明板によるものだが、同じく八木家のサイトにおける「新選組と八木家」のページにおいても、八木邸を新選組発祥の地と説明していることが確認できる。
幕末の文久3年(1863年)春、14代将軍家茂上洛にあたりその警護の為に上洛した浪士達は、ここ洛西壬生村に宿所を求めましたが、間もなく江戸に呼び戻されることになりました。しかしその中で当八木家を宿所としていた芹澤鴨、近藤勇、土方歳三、沖田総司、山南敬助、新見錦、原田佐之助、藤堂平助、野口健司、井上源三郎、平山五郎、平間重助、永倉新八の13名は浪士隊から分かれて京に残り、文久3年3月16日八木家右門柱に、松平肥後守御領新選組宿という新しい表札を掲げ、ここに新選組が誕生したのです。
ただ、壬生浪士組も、新選組も、会津藩の傘下にあったわけなので、個人的には八木邸ではなく、浪士組上洛時に集まった会津藩の本陣「金戒光明寺」を発祥の地としたいところではある。しかし、金戒光明寺の存在を知らない人は、この一文を判読したときに八木邸を新選組発祥の地と認識してしまうことだろう。
続いて「次第に隊士が増え付近の屋敷にも分宿した」の一文、これは八木邸の南隣にあった「南部邸」や、坊城通りを挟んだ向かいにある「前川邸」を指すものと思われる。現在、南部邸があった場所には別の建物があり、その面影を偲ぶことはできないが、前川邸に関しては今日でも往時のままになっている部分が多い。民家なので一般の人が自由に出入りすることはかなわないものの、土日祝日に限り、新選組隊士たちが出入りした勝手口の土間の部分で新選組グッズなどが販売されている。また、前川邸で切腹した新選組総長・山南敬助を偲び、毎年3月になると山南の法要である「山南忌」が開催されている(ちなみに山南の墓は、すぐ近所の光縁寺にある)。
【旧前川邸の入口(左)と山南敬助の墓(右)】
最後に「クーデターを起こそうとしていた過激な長州藩士らの一派の計画を未然に防ぎ」の部分に関して、確かに後世の人からすれば「祇園祭直前の風の強い日に御所に放火、中川宮朝彦親王を幽閉、一橋慶喜と松平容保らを暗殺した上で、孝明天皇を長州へ連れ去る」という計画はクーデターに見えるだろう。ただ、ここでクーデター Coup d’État(仏:政府への一撃)という用語を使うと、八木邸の説明は「幕府側の立場/視点」から書かれたものということになる。長州藩士たちにとっては、その計画こそが正義を貫くものであり、国の未来を思って立案したことだったかもしれないし、今の山口県の人からすれば納得のいかない文面に見えるかもしれない。となれば、ここはクーデターの一言で片づけてしまうのではなく、計画の内容をニュートラルに書いた方が良かったのではないだろうか。
続いて、「八木家住宅」の説明に目を移そう。
八木家住宅 八木家は、壬生村きっての旧家で、かつて壬生郷士の長老をつとめていた。また、幕末には新撰組の近藤勇、土方歳三らの宿所となり、旧壬生屯所として知られている。 建物は、長屋門が東に開き、その奥に主屋が南面して建つ。当家に残る普請願から長屋門は文化元年(一八〇四)、主屋は文化六年の造営と知られる。 主屋は、西端に土間を奥まで通し、土間に沿って居室を三室ずつ二列に配する。入口は土間部分に開くほか、東南隅に式台を備えた本玄関を配し、その北に仏間、奥座敷を一列に並べて格式ある構成をとっている。長屋門の外観は、腰に下見板を張り、与力窓や出格子窓を開くなど、昔のおもがげ[ママ]をよく残している。 壬生地区は今日市街化が著しいが、かつては洛中に近接した農村であり、当家は幕末期の農家の遺構として、また新撰組ゆかりの建築として貴重であり、昭和五十八年六月一日、京都市指定有形文化財に指定された。 京都市 |
まず興味深いのは、「新選組発祥の地(八木家)」の説明板と異なり、新選組の隊名に「撰」の文字が使用されていることだ。 新選組隊士たちが残した手紙や日記などの史資料では、「選」と「撰」の両方の使用例がある(Cf. 『歴史人――真説・新選組』KKベストセラーズ, No.99, 2019年, p.18)。 ただ、昨今では教科書等で「選」の方が一般に多く使われており、大河ドラマ『新選組!』でも「選」の方が使用されていることなどから、本稿でも「新選組」の表記を使用する。
その後は八木邸の間取りに関する説明が続いており、これは実際の間取りを正確に表現している。文面だけでは伝わりにくいと思うので、八木邸のサイトにある図面を見ていただきたい。見学時に入室できる部分は限られており、長屋門をくぐってから本玄関→仏間(中の間)→奥座敷(奥の間)と入っていって、奥座敷でガイドさんの解説を聞くという流れになっている。 芹沢鴨、平間重助、平山五郎らが暗殺された部屋は「仏間」と「奥座敷」であり、奥座敷の庭に面した廊下付近で寝ていたところを襲撃され、座敷の西側にある部屋に逃げ込んだところ文机に躓き、転倒した際に止めをさされたという。文机は現在も同じ場所に置かれており、襲撃の際についたとされる鴨居の刀傷も見ることができる。 星亮一+戊辰戦争研究会・編『新選組を歩く――幕末最強の剣客集団その足跡を探して』(光人社,2011年)によれば、芹沢らが寝ていた仏間と奥座敷について「暗殺の部屋は天井まで返り血を浴びて部屋中が血まみれになり、内装すべてが張り替えられた」(p.64)とされている。もちろん現在では壁や畳、天井等は全て改修されており、事件当時の面影はない。内装が張り替えられた具体的な時期は不明であるが、八木家の方の証言によると、明治初頭の段階では天井部分にまだ血糊の跡が残っていたらしい。最後に蛇足となるが、説明板で「昔のおもがげ」と記載されている部分は単なる誤植と思われ、八木家のサイトでは「昔のおもかげ」と改められていることを付言しておく。
八木邸の長屋門には、三つ木瓜の家紋が配された白と水色の布簾がかけられている。これを新選組の隊服である白と浅葱色の羽織と関連付けて考える人もいるらしいが、水色は「水が豊富な水生(壬生)の色」らしく、新選組と特に関連があるわけではないという。筆者も知らなかったが、ガイドさんに小ネタとして教えてもらったので、ここで共有しておきたいと思う。
壬生で2年あまりを過ごした新選組は、慶応元年(一八六五)になると、壬生から歩いて10分ほどのところにある西本願寺へと屯所を移し、さらに翌年には西本願寺南東の不動堂村に屯所を構えるようになっていく。次回は西本願寺周辺の新選組遺蹟を巡ってみることにする。
(文責:有田 豊)
◆参考文献
武山峯久『龍馬と新選組の京都』(創元社, 2001年)
星亮一+戊辰戦争研究会・編『新選組を歩く――幕末最強の剣客集団その足跡を探して』(光人社,2011年)
『歴史人――真説・新選組』(KKベストセラーズ, No.99, 2019年, p.18)
八木家(ウェブサイト:20190901 available)
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