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2020年1月号 vol.27

碑文に見る幕末 新選組遺蹟 - 天満屋事件跡(油小路)

2020年01月07日 00:56 by yutakarita
2020年01月07日 00:56 by yutakarita

 2020年元旦、本日で令和も2年目となった。

 筆者が物心ついた頃から毎年初詣に訪れている京都の伏見稲荷大社にも多くの人が参拝に来ており、日本の正月の賑やかさを肌で感じることができる。

 「正月」と「伏見」、この2つのキーワードが並んだ時に、本記事の読者が思い浮かべることは、たった1つだろう……そう、「鳥羽・伏見の戦い」である。慶応4年1月3日(1868年1月27日)、幕府軍と薩摩軍が上鳥羽で衝突し、これにて長きに渡る戊辰戦争が幕を開けることとなった。現在、鳥羽・伏見地域には数多くの石碑が建立されており、当時の戦について偲ぶことができるようになっている。

 さて、本記事のコンセプトから考えれば、このまま鳥羽・伏見の戦いに関する石碑を分析していくところである。しかし、戊辰戦争関連で「正月」といえば、もう1つ忘れてはいけない事件がある。それは、鳥羽・伏見の戦いの直前に京都市内で起こった「天満屋(てんまや)事件」である。

 天満屋事件とは、慶応3年12月7日(1868年1月1日)、土佐の海援隊士と陸援隊士らが京都の油小路にあった旅籠・天満屋に乗り込み、当時有力な佐幕論者であった紀州藩士・三浦休太郎を急襲して、新選組と戦った事件である。本事件の勃発日は、和暦で考えると12月初旬の出来事ながら、西暦で考えると元旦にあたる。この旅籠は現存しておらず、その跡地は小さなマンションになっているものの、事件現場であることを示す石碑がマンションの駐輪場入口近くにひっそりと建っている。

【天満屋事件跡地:祠の脇に石碑が建っている】

 油小路通りは自身の通勤経路であり、毎日のように旧天満屋の前を通り過ぎ、伊東甲子太郎の殺害現場を経由しては、駅へと歩を向けている。ただ、天満屋の方に関しては、石碑が1本建っているのみで具体的な説明書きは付されておらず、これまで事件の概要に関して深く考察する機会には恵まれてこなかった。そこで今回は、鳥羽・伏見の戦いに関する石碑分析を後日に改め、天満屋事件の跡地に建つ石碑の碑文ついて考えを巡らせてみたいと思う。

 新選組といえば、池田屋事件や油小路事件が有名であるが、天満屋事件に関しては詳しく知らないという読者も多いだろう。そのため、碑文を分析する前に、まずは当該事件の顛末について概観しておくことにする。

 

◆天満屋事件

 慶応3年4月23日(1867年5月26日)、土佐藩・海援隊の荷物を積んだ蒸気船「伊呂波丸」と紀州藩の軍艦「明光丸」が備中国・笠岡諸島付近の洋上にて衝突し、伊呂波丸の方が沈没するという事故が起こった。その賠償交渉に坂本龍馬が対応し、紀州藩は83,000両という多額の賠償金を支払わされることとなった。その交渉の最中、同年11月15日(1867年12月10日)、近江屋で龍馬が暗殺される。この暗殺を、多額の賠償金を背負わされた紀州藩の所業であると信じた海援隊士と陸援隊士の一部が、紀州藩側の賠償交渉担当者であった紀州藩士・三浦休太郎と三宅精一の暗殺を企てるようになった。これに関して危険を察知した紀州藩は、会津藩を通して新選組に三浦の警護を依頼、護衛として新選組の斎藤一、大石鍬次郎ら7名がつくこととなった。 

 同年12月7日(1868年1月1日)22時ごろ、海援隊士の陸奥陽之助(陸奥宗光)、沢村惣之丞、陸援隊士の岩村精一郎、大江卓、龍馬と親交のあった十津川郷士の中井庄五郎ら10数名が、油小路の旅籠・天満屋の2階で三浦休太郎と新選組隊士らが酒宴を開いていたところを急襲した。部屋に踏み込んだ中井が、「三浦氏は其許か」というなり三浦に斬りつけ、三浦は頬頤を負傷する。室内で乱戦となったが、軒の低い部屋では不利と感じた新選組がすかさず燈火を消し、闇夜に紛れて脱出、屋外での戦闘となった。その際、新選組の斎藤が背後から斬りかかられ、危うく落命しそうになるが、平隊士の梅戸勝之進が重傷を負いながらも敵を羽交い絞めにし、斎藤を救ったという。

 この事態を知った新選組の永倉新八、原田左之助ら14名と、紀州藩士らが現場に向かうが、一説には両者が珠数屋町の交差点で鉢合わせた際に互いを敵と勘違いし、衝突になったことで、現場への到着が遅れたとも言われている。そして、現場に到着した頃には、陸奥らは既にその場を引き揚げていた。この事件で、刺客側は中井庄五郎が死亡し、2~3名が負傷した。一方の新選組側は、近藤の甥にあたる宮川信吉と船津釜太郎が死亡、重傷1名、負傷者3名を出した。紀州藩側は、三浦が頬頤を負傷、三宅精一が軽傷を負うも、かろうじて難は逃れた。

(Cf. 『歴史旅人――新選組』晋遊舎, vol.1, 2019年, pp.66-67)

【新選組と紀州藩士が衝突したとされる珠数屋町の交差点:天満屋は右側方面】

 

 以上が、鳥羽・伏見の戦いの約1ヵ月前に発生した、天満屋事件の顛末である。『新選組を歩く――幕末最強の剣客集団その足跡を探して』(光人社, 2011年, pp.57-58)を紐解くと、三浦の名前は「休太郎」ではなく「久太郎」、三浦護衛の新選組隊士の数は「7名」ではなく「10名」、三浦急襲者の内訳は「海援隊/陸援隊/十津川郷士」ではなく「海援隊」のみ、そして討死した中井が「十津川郷士」ではなく「海援隊士」とされており、『歴史旅人――新選組』の記述とは様々な点で差異が見られるが、事件の大筋は両者とも一致する。

 現在の天満屋跡地に建てられている石碑には、この事件で死亡した十津川郷士・中井正五郎の名前が刻まれている(中井の墓は、京都・東山の霊山墓地にある)。石造りのそれは直方体の形をしていて、それぞれの面には「東側:勤王之士 贈従五位 中井正五郎殉難之地、南側:維新之史蹟 慶應三年十二月七日 天満屋騒動之跡」と書かれている。石碑の西側には何も書かれておらず、北側は祠の壁面に密接しているために何が書かれているのか確認できなくなっている。

 

 

 本来であれば、ここから石碑に関連する説明板の記述を分析する流れになるが、今回の石碑には説明板が付されていない。そのため、今回は趣向を変えて、天満屋事件の顛末について『京都史蹟めぐり』に掲載されている記事を分析対象にしたいと思う。

 『京都史蹟めぐり』は、京都の「維新を語る会」の名誉会長・寺井萬次郎(寺井史郎)が編集人となって昭和9年(1934年)1月に刊行した、京都市内の史蹟を紹介する書籍である。幕末の史蹟を考察するには必携として壬生・八木邸のガイドさんから教えていただき、筆者も目を通すようになった。当該図書の中で取り上げられている史蹟の時代については、書籍冒頭の凡例において下記のように述べられている。

 

本書は、平安奠都以来明治二年の車駕東幸に至る前後の頃までの京都の変遷を語るべき史蹟を載録したもので、特に幕末維新に於ける京洛の天地に憂國の熱血を流し、新日本建設に崇高壮烈なる死力を盡した先賢の勲を顧みん爲、其遺蹟の粋を選んだのである。蓋し一は以て我國史の研究に稗補し、一は以て盡忠報国の精神を鼓舞作興せむが爲である。

(『京都史蹟めぐり』p.3)

 (下線は筆者による付記) 

 下線部分を鑑みるに、当該図書が幕末維新の史蹟を中心として編集されていることは明確だろう。こうした幕末維新を中心とした史蹟紹介書において、天満屋事件がどのように取り上げられ、紹介されているのかを確認しておくことは、もしいつか天満屋事件の石碑に説明板を付すとなった時に有効な材料となるのではないだろうか。たとえその可能性は高くないにしても、一般にアクセスの難しい古書『京都史蹟めぐり』の記事をここで紹介しておくことは、幕末史に関する読者の興味・関心をかきたて、新選組の歴史解釈の一助になるものと思われる。よって本稿では、『京都史蹟めぐり』に掲載されている天満屋事件の石碑に関する記事を分析していくこととする。

 『京都史蹟めぐり』における天満屋事件の石碑に関する記事は、書籍末尾の「下京区之部」で確認できる。少し長くなるが、その全文をここに記載したいと思う。また、一部に旧字体/旧仮名づかいを新字体/新仮名づかいに改めて記載した部分がある旨、予めご了承願いたい。

天満屋騒動の址(油小路通花屋町下ル)

 坂本龍馬、中岡慎太郎両氏の横死に就ては、志士の間に種々の噂が傳へられ、殊に其刺客に就ては、或る者は新選組近藤勇なりとし、或る者は原田左之助なりとし、土州藩では其犯人に復讐を試みんと其捜索に奔走してゐた。折柄高臺寺、月心院の伊東甲子太郎の部下より、坂本等の刺客一件は全く近藤勇等一味であると説明したから、土州藩の人々は専ら敵の動静を窺ひ、一挙復讐せんと計画してゐた。此時陸奥陽之助は、三浦休太郎を左幕黨の姦物なり、常に新選組と相往来し、皇政復古の運動に對し妨害を興へんと、日夜油小路通花屋町の天満屋に會合し、坂本等一件にも重大なる關係ありと吹聴し、愈々天満屋襲撃のことに衆議一決して、慶應三年十二月七日夜、土州藩の山崎喜都眞、岩村誠一郎、關雄之助、齋原治一郎、本川安太郎、松島和助等の面々は天満屋に向つた。十津川の浪士中井庄五郎は同志を天満屋の入口に迎へ、「諸君續けよ」と大音聲に呼び乍ら躍り込んだ。此時三浦は新選組の土方歳三、齋藤一、中村小二郎等十数名と小宴を開いてゐたが中井は見る々々数名を斬り倒し、三浦は眼より頬にかけて一刀を浴びせられたが巧に姿を隠した。一同は遮二無二新選組の隊士に斬り附け爲に天満屋は修羅場と化し、中井庄五郎も刀折れて遂に即死した。暫くすると「三浦を討取つた」と呼ぶものあり、爲に合圖の短銃一發と共に同志の士は勇ましく引き揚げたが、味方は僅に中井が殺され、兵庫の人竹中興一郎が負傷したのみ。新選組にては多數の死傷者を出した。此報新選組に達するや、近藤勇は隊士二十余名を現場に急行させたが、既に其時は敵の引揚げた跡であつた。「三浦を討取つた」と呼ばはつた者は三浦黨の即智であつたのである。

(『京都史蹟めぐり』下京区之部 pp.12-13.)

 

 文書を分析する際には、誰が(視点)、誰に向けて(宛先)、何のために(目的)書いたかを、しっかりと把握しておくことが重要である。上記の記事が収められている書物は、寺井萬次郎が(視点)、一般の読者に向けて(宛先)、「幕末維新に於ける京洛の天地に憂國の熱血を流し、新日本建設に崇高壮烈なる死力を盡した先賢の勲を顧みん爲」または「一は以て我國史の研究に稗補し、一は以て盡忠報国の精神を鼓舞作興せむが爲」(目的)に作成されている。寺井は当該書の編集人であり、個々の記事に関しては、誰の筆によるものなのかが明らかではない。ただ、当該書を通底する視点は、寺井自身ひいては寺井の属する「維新を語る会」にあると考えていいだろう。

 幕末という時代は、佐幕(保守派)と維新(革新派)という2つの大きなイデオロギーが対立しており、どちらかの側に視点を置いた形での説明がされやすい傾向にある。天満屋事件の石碑には、討死した数名の中でも「中井正五郎殉難の地」と中井の名前のみが刻まれており、新選組隊士の名前は刻まれていないため、石碑を建てた人物および団体は維新側の立場に立脚していると推察できよう。しかし、この天満屋事件に関して、寺井らの書物では「土佐藩側」と「新選組側」という2つの視点で状況が描かれている。まず初めは「土州藩の人々は専らの動静を窺ひ」、「味方は僅に中井が殺され」と土佐藩側の視点で話が進み、文末では「近藤勇は隊士二十余名を現場に急行させたが、既に其時はの引揚げた跡であつた」と新選組側の視点で話が締めくくられている。土佐藩側の視点で流れを描かなければ顛末がわかりにくい事件にも拘らず、新選組側の視点も忘れずに包含し、1つの文章の中で、2つの視点が使い分けられていることは注目に値する。天満屋事件に関して、寺井らが可能な限り客観的な立場を保持しようとした証左なのかもしれない。

 続いて、記述内容に目を向けてみよう。寺井らの記事では、現代の説と比べて、中井庄五郎(=中井正五郎)、岩村誠一郎(=岩村精一郎)と名前の表記に若干の違いがあるが、事件が発生した日時は正確に一致している。ただ、事件の流れに関しては、伊呂波丸と明光丸の衝突事件について一切触れておらず、土佐藩が三浦を襲った理由を、三浦が佐幕派の人間で、新選組と相通じて坂本の暗殺に一役買ったからとしている。この記述は『歴史旅人――新選組』(晋遊舎、2019年)に含まれている賠償金云々の話とは大きく異なるものであるため、解釈には注意が必要である。寺井らの記述を読む限りだと、龍馬暗殺の犯人は新選組であり、土佐藩が復讐すべくは本来新選組のはずである。ただ、そこで陸奥が三浦の所業を吹聴し、いくら当人が龍馬暗殺に重大な関与があるとはいえ、復讐の主旨を「新選組隊士の殺害」ではなく「三浦の討伐」に定めるのは聊か不自然である。「一同は遮二無二新選組の隊士に斬り附け」という部分では、新選組隊士の無差別殺人(新選組側には多くの死傷者が出ている)=土佐藩の復讐と解釈できなくもないが、三浦を討ち取った時点で戦線離脱するということは、やはり三浦の討伐を復讐の主目的として描かれていることがわかる。末尾の「『三浦を討取つた』と呼ばはつた者は三浦黨の即智であつた」の部分からも、刺客たちが「三浦」を暗殺しにきたことを、三浦ら自身が理解していたことが伺えるので、目的は非常に明確である。

 

 以上のことから、『京都史蹟めぐり』の記述をそのまま説明板にすることはできないが、日付の裏付けが取れる点、天満屋に踏み込んだ土佐藩側の志士の名前が多く挙げられている点について、天満屋事件を語る際の参考にする価値はあると判断できよう。天満屋事件の跡地のスペースを考慮しても、今の現場に説明板を設置するのは難しいと思われる。ただ、何らかの形で、「中井正五郎殉難の地」の石碑から天満屋事件を偲ぶことができる状況を創り出せることができれば、望外の慶びである。願わくは、この記事がその状況を創り出す1つの材料にならんことを期待してやまない。

 今回は、天満屋事件に終始してしまったが、油小路にはもう1つ、伊東甲子太郎の暗殺にまつわる石碑が建っている。次回は、その碑文と説明板の分析に紙面を割いてみたいと思う。

  

◆参考文献

 寺井萬次郎(寺井史郎)『京都史蹟めぐり』(西尾勘吾, 1934年)

 星亮一+戊辰戦争研究会編『新選組を歩く――幕末最強の剣客集団その足跡を探して』(光人社, 2011年)

 『歴史旅人――新選組』(晋遊舎, 2019年)

 

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