次に訪れた場所は田原本町八条です。
春日神社の脇には「孝子庄右衛門生誕地」という石碑が建っています。
春日神社(磯城郡田原本町千代八条)
「孝子庄右衛門誕生地」の碑
奈良県立民俗博物館運営協議会委員の岸田定雄氏が書かれた「宝暦四年、十市郡農民 の強訴と流罪」の中で庄右衛門の妻や兄弟が、自分たちが犠牲になっても父与十郎を 送り出そうとする健気な逸話が記されています。
芝村騒動に於ける処罰の中で伊豆国の新島に遠島二名とあります。 膳夫村庄屋三郎助と八条村年寄与重郎(与十郎)51歳がそれに当たります。
与重郎の長男庄右衛門は父不在の後、祖母と三人の弟妹を養い、育み、一家を支えていたが父遠島後 十四年を経た明和五年、たまたま訪ねて来た遠江国豊田郡柴田村の権八というも のから新島在島の父の話を聞かされた。
権八も罪によってこの島へ流されていたが、赦免され、西国巡礼の旅に出た途次、共に暮 らした父与十郎の事を知らせてくれたそうです。 与十郎は遠く離れた島で千辛万苦し、然も唯一の友人、膳夫村の三郎助もその地で果て、 孤独の身となっていたのです。
島の父と在村の庄右衛門との間には、芝村藩と島の役人を通じて消息を取り交わすことが 出来たことから、父与十郎が眼を病んで苦しんでいることも知ることになりました。 庄右衛門は、病む父をそのままにはしておけないと芝村役所へ嘆願し、その真情が役人の 心を動かし、役所の尽力で江戸表へ願い出、遂に庄右衛門は新島にいる父を訪う事を許さ れました。
弟、平兵衛は大阪へ奉公に出て給銀を前借し、妹も同じく奉公に出て平兵衛同様前借し た給銀を兄の路用に当て、子供たちは庄右衛門の兄弟が預かり、妻は郷里に帰り、所持 の田畑は八条村の長に頼み、後顧の憂いを少なくして出発しています。
かくて、明和六年三月二十一日、庄右衛門は十五年後にして父に再会したのです。 小さい藁屋にうずくまっていた盲目の父与十郎は庄右衛門が来てくれたことを知りました。 土地は不良であるが、渡島した庄右衛門は農に励み、後れている島の農業改良を促進し、 持参した多くの種子も島人に頒ち、それ以来島には綿や煙草も出来るようになった。
安永七年(1778)閏七月、八条村へ芝村役所から与十郎、庄右衛門のことにつき問い合わ せがあり、三ヶ月を経た十月、江戸表から与十郎遠島赦免の令が下りました。 そして、諸手続きを経、同年十二月十三日、与十郎は二十四年ぶり、庄右衛門は十年ぶり で懐かしの郷里八条に帰ることが出来たのです。かくして、孝子庄右衛門の名は天下に 喧伝せられ、称賛せられることになった。
~原文のまま掲載~
この親孝行物語は、当時多くの人の共感を呼び、書物となって出版されていきます。その 結果、明治十三年には「日本教育文庫 孝義編」に取り上げられ、道徳教育の素材ともな っています。 新しいところでは、1983年、森銑三著「新島物語」に詳しいそうです。
芝村騒動ゆかりの地、今回最後の訪問地は吉備村(現桜井市吉備)薬師寺。
吉備村では、平兵衛(藤本)、平次良(岡橋)、甚次良(竹田)が牢死しています。 ここ、吉備薬師寺にはこの犠牲者を供養するための供養碑が建てられ、残念ながら私には 文字の判別が出来かねますが、裏に三人の俗名と右横に「江戸二而命終 施主吉備村中」 と刻まれているそうです。
吉備に残る資料によると長八(高井)、庄藏(松井)、新五郎(森本)、又四郎(吉崎) 甚五郎(吉本)の五名が帰郷していますが、追放となった彦次郎と仁郎兵衛(入牢)の 消息は不明とのことです。 吉備の森本家、吉崎家、吉本家は帰村した村人のご子孫であり、今でも毎年9月15日に 供養祭を行っていると聞いています。
私は昭和53年に現在の地、旧大福村(現桜井市大福)に住まいするようになっています が、この地は同じ天領地でも藤堂藩預かりであったようで、年貢も箱訴した九村よりも軽 く、比較的恵まれていたようです。
それに比べ僅か500メ-トル隔てた常盤村をはじめ、耳成山麓に広がる村々ではこん なにも深くて大きな歴史があったなんて!・・・今回芝村騒動のゆかりの地を巡って みて驚きと感動の連続でした。と同時に歴史を知る大切さと愉しさが益々、私の中で増幅 される思いがした次第です。
~完~
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