私の高祖父で会津藩士の鈴木丹下は、文久2年(1862)に京都守護職を拝命した藩主・松平容保に従い京都へ赴いた。
翌3年8月18日、朝廷内で過激に攘夷を叫び盛んに偽勅を発していた公卿たちと、彼らを背後で操っていた長州藩が京都から追放された。後に「八月十八日の政変」と呼ばれ、「七卿落ち」とともに幕末史に刻まれたクーデターである。
このクーデターを主導した容保と会津藩は、孝明天皇から絶大な信頼を寄せられるようになる。天皇は、その年の10月、容保へ感謝と信頼を表した宸翰と御製を賜る。
丹下は、その政変の現場となった御所の警備に就いていた。24歳の時だった。上役の命により九門を巡り、長州藩の様子を斥候し、対峙した自藩や他藩の警備の有り様を探索する。
そして、この時のことを克明に記した「騒擾日記」と題する文書を残した。それは、毎日のことを綴るいわゆる日記ではなく、ほとんど出陣した18日の一日だけが詳しく書かれた手記で、表題は「騒擾の日を記す」という意味であろう。
この日丹下は、戦闘行為にこそ巻き込まれなかったが、まさに戦場にいた。
慶長5年(1600)、関ヶ原において東軍と西軍の激闘があった。東西4キロ、南北2キロという極めて狭い場所で、両軍将兵16万人が繰り広げた合戦だった。
このような戦場での事実を今に伝える古文書の中で、完全に欠落していることがある。それは、16万人の食事や排せつの様子である。狭い場所に16万の人間がひしめきあっていれば、必ず発生する問題である。古文書にそのような描写が無いのは、勇猛果敢な武士たちには相応しくない事柄と考えられていたからであろう。
「騒擾日記」には、政変当日の会津藩士たちの食事について詳しく綴られている。戦場における武士たちの人間模様を活写した大変に貴重な記述である。それは、忍び寄る近代を敏感に感じ取っていた丹下が、明日へ書き残すべきと着目した結果だった。
『夕方になって、賄いが出された。昼食も同じであったが、大握り飯一つに、胡麻をくるみ、生味噌、梅漬け、大根漬けを乗せ、紙か竹の皮に包まれていた。翌十九日までこの通りで、その後は、油揚げ、ひぢき、鯡、焼き豆腐、大根漬けの類が取り交ぜてついてきた。御花畑前を流れる小川の水を、陣笠で汲み、喉を濡らしていた。この水は雨水であり、また小便などを川上でしていることも承知して、口に含んでいた。普段であれば、汚いことを厭がる人も、なかなかそんな余裕は無かった。夜に入って、手桶に水を入れ、柄杓をつけて出されるようになった。しかし、これも北川の水とのこと。もっとも二十日頃より湯になる。夜が更けるにつれ、雨足も強くなってきた』
この時、会津藩の兵員は、交代で帰国の途についていた者たちも呼び戻されていたので、1800人ほどであった。多数の兵士たちへの食物や湯は、九門内の公家屋敷が立て込んでいる所で用意できるはずがないので、黒谷の本陣で調理され、鴨川を渡って運ばれて来たのであろう。
さらにこの日、丹下は二回鴨川を渡っている。つまり、早朝に鞍馬口の屋敷を出て黒谷の本陣へ向かった時と、黒谷から御所へ出陣した時である。もし政変の情報が事前に漏れていたら、長州軍にその橋の袂を抑えられ、兵士たちの移動は不可能だったに違いない。
軍事力の行使には、兵隊の移動とそこへの兵站という二つの要諦がある。本陣を黒谷に置く限り、「鴨川」の存在が何れの要諦をも阻害していた。
会津藩は、政変の年の10月、御所の西側で現在の京都府庁舎辺りに広大な用地を確保し、守護職上屋敷の建設に着手する。 それは、孝明天皇の強い要請に因るものでもあった。
(鈴木 晋)
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2024年春季号 vol.5
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