油小路通り。
この通りの名前を耳にして想起されるのは、やはり「油小路事件」や「伊東甲子太郎」であろう。実際、「油小路」とオンライン検索すると、当該事件に関連したサイトの情報が上位に集中するほどに、通りの名前と事件は密接に結びついている。
油小路という通りの由来は、元来、西本願寺で用いる「行燈用の油」を販売する店が軒を連ねていたことにあるという。実際、油小路事件跡地の近くには、天保6年(1836年)創業の商店が今も営業中である。
そして、京都市を南北に走る油小路通りの下京区地域には、新選組関連の史跡が集中している地区がある。前回の記事では「天満屋事件跡」の石碑を分析したので、今回はそれよりも300メートルほど南下した場所に位置する「伊東甲子太郎外数名殉難之跡」の石碑を本稿における分析対象とする。
【油小路通り周辺における新選組関連史跡の位置関係】
油小路事件には、関与する場所が大きく2つある。それは、①伊東甲子太郎が絶命した場所(本光寺前)、②藤堂平助ら御陵衛士と新選組が切り結んだ場所(油小路七条の交差点)である。①と②との間には100メートルほどの距離があり、時系列的にはまず①が発生し、続いて②が発生するという流れになっていて、これら一連を指して「油小路事件」というのである。そして、①には石碑が建立されているが、②には事件の記憶を今に留める媒体は設置されておらず、一見すると「ただの交差点」にすぎない。上の位置関係図でいえば、中央付近の「七条堀川」と「113」という表記に挟まれた交差点が、それに該当する。
【御陵衛士と新選組が切り結んだ油小路七条の交差点】
上の写真は、交差点を南側から見て撮影したものであり、奥に向かって伸びているのが油小路通り、左右に走っているのが七条通り(今では4車線の広い道路だが、幕末当時はこの南側の2車線程度の幅しかなかったらしい)である。①で絶命した伊東甲子太郎の遺体は、この交差点の真ん中に遺棄されたようだ。御陵衛士の屯所があった高台寺・月真院からここまではそれなりの距離があり、大人の足でも30分はかかると思われる。そして、遺体を引き取りにきた御陵衛士と新選組が戦闘になり、御陵衛士の藤堂平助、服部武雄、毛内有之助が落命。鳥取藩の『慶応丁卯筆記』の検分録によれば、交差点の南西に藤堂が、北東に服部と毛内が斃れていたという。
※ 余談だが、服部と毛内が斃れていた場所の脇には、現在「ヒイヅルcafe」というカフェができている(写真右上)。同店のパンケーキは銅板で焼いたものであり、大変美味なので、油小路七条を訪れることがあれば、ぜひついでに足を運んでもらいたい。
そして、油小路七条の交差点から少し南下したところにあるのが、伊東甲子太郎が絶命した場所とされる本光寺である。慶応3年11月18日(1867年12月13日)、伊東は同地から南西に5分ほど歩いたところの醒ヶ井木津屋橋にあったとされる近藤勇の妾宅(七条醒ヶ井という説もあり)に招かれ、接待を受けた。午後8時頃、帰路につく伊東が木津屋橋通りを東に向かって歩いていたところ、突如として大石鍬次郎ほか新選組隊士数名の襲撃を受けることとなり、大石の槍によって深手を負った伊東は油小路の本光寺門前にまで辿り着くも、当地で絶命したという。
【本光寺】
なお、本光寺には、断末魔の伊東がもたれかかったといわれる石柱「門派石」(もんぱせき)が今も残っている。当時は門の外にあったようだが、現在では門の内側に移設されており、立派な屋根と「伊東甲子太郎絶命の跡」と刻まれた石碑が門派石の周囲に設置されている。
【伊東がもたれかかったといわれる門派石】
そして、本光寺の門前に建てられている石碑には、「伊東甲子太郎外数名殉難之跡」というように、伊東のみならず、油小路事件で落命した藤堂、服部、毛内も含めた形で、同地の歴史的記憶を想起させる書式が採用されている(実際、本光寺内の仏壇に置かれている位牌にも、左記4名の名前が彫られている)。石造りのそれは直方体で、頂上部が四角錐の形をしており、高さ149cm×幅20cm×奥行20cmとなっている。それぞれの面には「東側:本光寺/西側:伊東甲子太郎外数名殉難之跡/南側:安寧自治連合会 油小路町/北側:昭和四十六年十一月 京都市」と刻まれており、全ての面に何らかの情報が掲示されていることがわかる。なお、安寧自治連合会とは、本光寺を含む京都駅西側エリアの「安寧学区」における自治会を指すものである。
この石碑のすぐ後ろには、石碑にまつわる説明板が設置されている。つい昨年までは、かなり老朽化した説明板が立っていたのだが、今からちょうど1年前の2019年3月、新しい説明板にリニューアルされた。その際、日本語の説明文のみならず、英語、中国語、朝鮮語の3言語による説明文も新たに付記されたことは注目に値する。あいにく筆者の言語能力では、中国語と朝鮮語は解読できない。ただ、英語であれば読解可能なので、今回は日本語のみならず、英語の説明書きも分析してみたいと思う。
【本光寺の説明板:旧式】
【本光寺の説明板:新式】
伊東甲子太郎外数名殉難の地 伊東甲子太郎は常陸(茨城県)の出身で、学問もでき、剣は北辰一刀流の名手であった。 京都市 |
(下線は筆者による付記)
油小路事件の顛末は、多くの書物に記されている。今回、説明書きを分析するにあたっては、次に挙げる複数の文献を参照した。中見利男『新選組のことが面白いほどわかる本』(中経出版,2003年)、星亮一+戊辰戦争研究会編『新選組を歩く――幕末最強の剣客集団その足跡を探して』(光人社,2011年)、『歴史読本――新選組 京都15大事件の謎』(新人物往来社,2012年)、菊地明『新選組――謎とき88話』(PHP研究所,2013年)、木村武仁『幕末のその日、京で何が起こったのか』(淡交社,2018年)、『歴史旅人――新選組』(晋遊舎, 2019年)……出版の年代に差はあるものの、記載されている顛末はどれも同じであり、上の説明板の内容とも一致する。
今回、説明板の記述で気になったのは、下線①と②の2か所である。
まず、下線①についてだが、ここに挙げられている「近藤勇ら」とは、具体的に誰を指しているのだろうか。先の文献を見ると、伊東を招いたのは「近藤」であったり、「近藤ら」であったりと、単数形と複数形が混在しており、表記が一致していない状況である。そして、「近藤ら」の場合、近藤以外のメンバーは誰だったのかを明示しているものは、先の中には1つもないのである。唯一、『新選組を歩く――幕末最強の剣客集団その足跡を探して』(2011)のみが「近藤や新選組幹部」という形で、近藤の他に幹部クラスの隊員が臨席していたことを示唆しているが、それが誰を指すのかまでは明記していない。説明書きにおける情報としては「近藤ら」で十分なのであるが、深読みするなら、招待者たちが誰なのかを明示する文献に出会いたいところである。自身の手元にある文献は一般書ばかりで、『浪士文久報国記事』などの一次史料や研究書を検証したわけではないため、今後の調査によっては招待者たちの名前が判明する可能性は十分にあるといえよう。
続く下線②について、「世にこれを油小路七条の変という」とあるが、これはどこまで一般化できるものなのだろうか。多く見かけるのは「油小路事件」というものであり、その他に「伊東甲子太郎暗殺」や「油小路の変」というものがある。ただ、「油小路七条の変」という呼称は寡聞にして知らず、この説明板で初めて目にしたほどである。唯一、『歴史読本――新選組 京都15大事件の謎』(2012)のみが「油小路七条の決闘」という表記を用いてはいるが、これもそれほど市民権を得た呼称とは考えにくい。「世にいう」となれば、世間に広く流布しているような印象を持つが、事件現場の説明板にある名称と、実際に流布している名称の間には、若干の乖離があるように思われる。もしかすると、この説明板が初めて設置された当時は「油小路七条の変」という名称が一般的だったのかもしれない。
さて、続いては英文の説明書きを分析していく。英文は、説明板の左下に小さく記載されている。
Site of Martyrdom of Ito Kashitaro and Comrades Ito Kashitaro came from an area that is now part of Ibaragi Prefecture. Well-educated and a renowned swordsman of the Hokushin-itto style, he joined the pro-shogunate police force Shinsengumi in 1864. However, as one who revered the Emperor, Ito gradually came into conflict with the leader of the Shinsengumi, Kondo Isamu. Although Ito dropped out of the Shinsengumi in March 1867, disagreement between him and the Shinsengumi ran deep. In November of that year, ①Kondo Isamu and others invited Ito to drink with them, and subsequently stabbed him to death here while his senses were slowed by alcohol. |
(下線は筆者による付記)
英文の説明書きは、和文のそれと比べても遜色がなく、ほとんどそのまま訳したかのように、記載内容が一致している。「茨城県」(いばらきけん)を “Ibaragi Prefecture” と表記したり、「近藤勇」(こんどう いさみ)を “Kondo Isamu” と表記したりといった点に訳者の日本語感覚が表れており、本文は日本の地理や幕末史についてさほど明るくない日本語非母語話者に依頼して、翻訳を作成した可能性が浮かび上がる。なお、2020年3月6日時点の英語版Wikipediaには、それぞれ “”Ibaraki Prefecture”、“Kondo Isami” と記されていることを付言しておく。
英文の記述で気になったのは、下線①と②の2か所である。
下線①については、近藤と他数名が伊東を酒席に招き、酒で感覚が鈍くなっている間に刺殺したと記されている。和文と違って「伊東の “帰路” に殺傷した」とは記されておらず、これだけ見れば、まるで酒席で酔っているところをその場で刺殺したかのように判読できる。また、下線②にも油小路のことは一切記載されていないため、英文だけで解釈するのであれば、近藤らは “here”(石碑と説明板のある場所:本光寺)に伊東を招いて刺殺し、助けにきた仲間たちを “here” で待ち伏せて殺害したとも理解できてしまうのである。油小路通りと七条通りが微妙に離れているにも拘らず、なぜ “the Aburanokoji-shichijo Incident” という呼称が根付いているのか、疑問も浮かびそうだ。和文の説明と大きくかけ離れているというわけではないが、英文の方には「帰路」の一言がないために、伊東が招かれ、刺殺されたのは本光寺内と解釈されてしまう可能性を含んでいるといえよう。
今回、油小路事件に関する石碑と説明板に関する分析ができたことで、毎日のように見ている馴染み深い場所が、より一層身近に感じられるものになった気がする。馴染み深いといえば、筆者にとっては新選組の「不動堂村屯所跡」の碑文に関しても同様に身近なものなので、次回は油小路をさらに南下していきたいと思う。
【本光寺前から七条通り方面を望む:水色の車がある場所が七条通り】
(文責:有田 豊)
◆参考文献
『歴史旅人――新選組』(晋遊舎, 2019年)
『歴史読本――新選組 京都15大事件の謎』(新人物往来社,2012年)
菊地明『新選組――謎とき88話』(PHP研究所,2013年)
木村武仁『幕末のその日、京で何が起こったのか』(淡交社,2018年)
中見利男『新選組のことが面白いほどわかる本』(中経出版,2003年)
星亮一+戊辰戦争研究会編『新選組を歩く――幕末最強の剣客集団その足跡を探して』(光人社,2011年)
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