【大隈 重信公】
都内の九段下駅から竹橋方面に向うと左側に九段合同庁舎が3棟建っております。23階建ての一番大きな第3合同庁舎には千代田区役所が入っております。その千代田区役所前に早稲田大学の創立者であります大隈重信候の雉子橋邸の跡地となっており、そこに記念の碑が建立されておりました。 大隈重信(1838年~1922年)は、明治新政府に出仕し、大蔵卿等を歴任し、日本国の「円」の創設に尽力しました。また内閣総理大臣を二度にわたり務め、近代国家の基礎作りに貢献しました。大隈重信は、1876(明治9)年10月から1884(明治17)年3月まで、この雉子橋邸宅に住み、1882(明治15)年10月創立の早稲田大学の前身、東京専門学校の開校事務もこの邸宅で行った。と、記念碑に記されておりました。早稲田大学は創立125周年の記念行事を盛大に行った際、その記念行事の一環として関係者が記念碑を設置しました。 記念碑の上部には大隈講堂の塔を模しております。日本の歴史に大きく貢献した大隈重信候。教育を通して日本国のために尽力した人たちを育成してきました。大隈重信候は、人を残して、名を残しました。
【大隈重信邸跡】
【早稲田大学の大隈重信の銅像】
大隈重信邸跡の真向かいに、「清水門」があります。江戸時代には江戸城の一画で、北の丸への出入口として利用されておりました。北の丸は、武家地として利用され、江戸時代中期以降は、御三卿のうち田安家(田安徳川家)・清水家(清水徳川家)の屋敷と蔵地に利用されておりました。門を潜り進むと北の丸公園があり、当時、北の丸公園の東側は一帯は清水家が所有し、西側一帯は田安家が所有しておりました。清水門という名の由来は、家康入府で江戸城が築城される以前、中世には清水寺が建っていたとか、清水が湧き出す土地だからともいわれ定かでありません。
【清水門】
次に、明治神宮内の「清正の井戸」を紹介します。「清正の井戸」は、いまだに謎の部分が多く、パワースポットして風水の力が得られると噂されております。私は、パワースポットとしての「清正の井戸」の写真をスマホの待ち受け画面にしております。「清正の井戸」の謎を知る上でかかせないのが、「清正」というのが何なのか?「清正」とは、加藤清正(かとうきよまさ)という安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名の名前です。 加藤清正と言えば、虎を狩る絵巻物が有名で、現在もこの虎狩りの話は伝説として残っています。また加藤清正は幼いころから豊臣(羽柴)秀吉に仕え、秀吉の小姓から家臣へ、家臣からその筆頭へと成長していきます。そして、江戸時代に入ると家康に気に入られ、関ヶ原合戦の功名により肥後(熊本県)に領地を与えられ、初代・熊本藩主となりました。さらには、家康の居城・江戸城付近(=現在の皇居)にも別邸をも与えられています。武将としても名高い「加藤清正」 は、城造り・治水・干拓の技術にも優れていて、「築城の名人」として、「熊本城」や「名古屋城」などを築城し、「土木の神様」とも称されていました。その築城の名人であった加藤清正が掘ったと言われておりますが、この「清正の井戸」です。 しかし、「清正井」にまつわる言い伝えは色々有り、本当に清正が自ら掘ったのかは謎とされています。 明治神宮の清正の井戸あたりに加藤清正の江戸の別邸があった?? 「清正井」のある、現在の明治神宮御苑は、江戸時代初めに加藤家の別邸があり、清正が住んでいたかどうかは定かではないものの、清正の子である忠広が住んでいたと伝えられています。しかし、まもなく加藤家の血筋が途絶えることとなり、その後は彦根藩主である井伊家の下屋敷となりました。
【清正の井戸】
都内には、いろいろな遺構がたくさんあります。たまたま出張のついでに見つけた遺構もありましたので紹介しました。
【記者 鹿目 哲生】
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