戊辰戦争研究会の皆様との寛永寺の特別参拝後、私は皆様と別れ、谷中霊園の徳川慶喜公の墓に向かいました。歩を進めると徳川慶喜のお墓の案内があり、すぐに到着しました。徳川慶喜公のお墓は神式のお墓です。正面中央の二つの墓のうち、左側が徳川慶喜のもので、右側は正室の徳川美賀子のお墓です。
【徳川慶喜公の墓】
徳川慶喜公は、大正2年11月22日に亡くなりました。77歳でした。幕末・維新の重要人物の中で最後に亡くなったのが慶喜公であり、既に、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、岩倉具視など、徳川慶喜公の人生を大きく変えた人たちは既に亡くなっており、勝海舟や明治天皇さえも亡くなっておりました。徳川慶喜公は、寛永寺の葵の間で二か月間謹慎したあと、江戸城開城の日に水戸に移り、さらに、水戸から駿府に移り謹慎しました。明治2年9月に謹慎が解除されましたが、その後も静岡に住み続けました。そして、ようやく明治30年に東京に転居し、翌年31年(1898)に明治天皇に拝謁し、明治35年には公爵となりました。そして大正2年に77歳でなくなりました。最後の将軍徳川慶喜公のお葬式は、当時東京のかなり人たちが沿道でお見送りしたとガイドさんは写真を見せてくれました。
慶喜公のお墓の後ろに側室(中根幸、新村信)のお墓もあります。 徳川慶喜公は十男十一女の子沢山ですが、多くの子供の母親が側室の新村信と中根幸の二人です。中根幸は、中根芳三郎の娘として生まれ、成田信十郎の養女となって側室となりました。新村信は、旗本松平勘十郎の娘に生まれ、新村猛雄の養女となって側室となりました。広辞苑の編者新村出は、新村信の義理の弟になります。二人とも多くの子供たちを生んでいますが、生前の役職は側女中で、子供を生んだからといっても、女中以上の扱いを受けることはなく、子供たちからも「幸」とか「信」とか呼び捨てにされたといいます。2017年9月25日に徳川慶喜公の曾孫である徳川慶朝さんが亡くなられました。徳川慶朝さんは写真家として活躍されていましたが、独身で、養子もとらなかったと言われています。徳川慶喜家が今後どうなるのか気になるところです。徳川慶喜の墓の手前には、勝精(くわし)夫妻のお墓もあります。勝精は、徳川慶喜公の十男で母親は新村信です。勝海舟は長男小鹿が若くして亡くなったため、徳川慶喜にお願いして、十男の精を養子にもらいました。そして小鹿の子供つまり勝海舟からすれば孫娘となる伊代子と結婚させました。
私が、徳川慶喜公の墓に到着するや否や、勝海舟の帽子をかぶったポランティアガイドが近づいてきて慶喜公の墓についてそれはそれは詳しく説明して頂きました。その中で、慶喜公と澁澤栄一氏との関係や、慶喜公と勝海舟の関係をこと細かくガイドさんが収集したファイルに収納されている写真等を交えて説明してくれました。その中で、明治35年に徳川慶喜公が公爵となりました祝賀会に、なんとなんと松平容保公の長男で会津第十一代当主の松平容大氏が招待され列席したそうです。その時の写真がこれです。
【松平 容大氏】
【徳川慶喜公の孫の徳川慶光一家と澁澤栄一氏】
ボランティアガイドの説明の中で、一番驚いたのが徳川慶喜公の孫と松平容保公の孫が結婚していた事実です。また、松平容保公が日光東照宮の宮司を務めている際に、徳川慶喜公は東照宮に行き、再会を果たしていた事実にはとても驚かされました。どんな話をしたかはわかりませんでしたが。私からこんなに詳しいガイドさんですので、江戸城無血開城の際、徳川慶喜公と勝海舟が会津藩を見捨てたのはどうしてかと尋ねると、ガイドさんは最大の謎であると答えました。
その後、ガイドさんの案内で澁澤栄一氏の墓に連れて行って頂きました。
【澁澤栄一氏とお墓】
谷中霊園も初めて訪問しましたが、広大な霊園で数々の有名人が眠っている由緒ある霊園でした。
【記者 鹿目 哲生】
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