会津藩の江戸上屋敷は、保科正之の時代は、鍜治橋内にあり、後に桜田門内に移ります。その後、貞享元(1684)年、会津藩第三代藩主の松平正容が、正式に御家門に列すると、大手前竜ノ口の屋敷を拝領、宝永6(1709)年には、9,150余坪の和田倉門内を拝領し、本邸として幕末まで使用する事になります。9,150坪とは、まさに会津藩がいかに江戸幕府の中枢だったかを証明する事実です。凄い凄い。
【江戸時代の江戸会津藩上屋敷の地図】
【現在の地図】
現在の地図に記載されている「和田倉噴水公園」は、昭和36年に平成天皇のご成婚を記念して作られました。その後、平成7年に令和天皇のご成婚を記念して、大噴水を再整備し、新しく造られた落水施設やモ二ュメン卜を流水施設で結んでいます。江戸会津藩上屋敷跡は、現在の「和田倉噴水公園」と「行幸通り」となります。現在の東京駅の真正面の通りを皇居へ向かって直進し、右側の東京海上日動火災保険の本社ビルを過ぎるとすぐの位置にありました。
【和田倉噴水公園】
【行幸通り】
「江戸会津藩上屋敷」については、「戊辰研マガジン」2018年12月号vol.14にて鈴木さんが投稿されております。
https://boshinken.publishers.fm/article/19250/
明治2年(1869)7月、明治新政府は和田倉門内の陸奥会津藩主松平容保の上屋敷に、旧幕府軍を威圧する目的で軍事防衛を司る兵部省を置きました。陸海軍の階級制が定められ、明治3年10月に全国から常備兵を徴収して、陸軍はフランス式に、海軍はイギリス式に軍事教練を行いました。しかし、明治5年(1872)2月26日会津藩邸の兵部省官舎から出火、折からの強風に煽られて、丸の内、銀座、京橋、築地、著名な築地ホテル館と34ケ町の28万坪を焼失「銀座大火」と呼ばれました。そこで、新政府は不燃化都市を目指した。東京府知事由利公正の主導で、大蔵省雇トーマス・ウォートルスの設計により銀座一帯に煉瓦街の建設計画され、明治5年着工、明治10年に完成しました。わが国初の歩道と車道を区別した27m幅の道路に向かい合った銀座煉瓦街大通りに初のガス燈が灯された。江戸時代から銀座通りといえば尾張町(銀座4丁目)までだが、銀座煉瓦街大通りを契機に銀座8丁目まで延伸しました。
旧幕府の権威となっていた会津藩松平容保の上屋敷を威圧して、新政府軍を鼓舞するために置いた兵部省が裏目に出て大惨事の火元となりました。巷間、会津落城の怨念説が囁かれ始め、慌てた新政府は、銀座大火2日後の2月28日に兵部省を廃止して、陸軍省と海軍省を新設して移転しました。また陸軍を常備・後備・国民兵役の三軍とし、初代陸軍大将に西郷隆盛を任じた。同時に天皇を警護する北の丸の御新兵は近衛兵と改称された。大正12年の関東大震災で不燃化都市の銀座煉瓦街通りは耐震性に乏しく無残にも壊滅した。多くの銀座一帯の住人は東京府下に移転し始めた。荏原郡戸越村は人口増加のため、無料で引き取った銀座の煉瓦で下水道工事を行った商店街を戸越銀座商店街と名付けた。
和田倉見附門 和田倉門は元和6年(1620年)に構築され「蔵の御門」とも呼ばれ、士衆通行の橋とされていた。和田「わた」とは海の名称で「わたつみ」と同じ意義で、日比谷入江に望んで倉が並んでいたことで、慶長12年頃から和田倉と呼ぶようになりました。江戸湊からの船荷を道三濠の辰ノ口で荷揚して和田倉で集積保管していた。警備は二、三万石の譜代大名が担当、鉄砲十挺・弓五張・長柄槍十筋・持筒二挺・持弓一組を常備していた。明治元年に明治天皇が初めてご東幸のさい、呉服橋門から和田倉門を通って江戸城西ノ丸に入られた。和田倉橋は平川橋とともに江戸城の木橋を復元した貴重な景観の橋であります。和田倉門と渡櫓門は石積を残して撤去されたが、和田倉門の高麗門は、半蔵門に移築され今もその役割を担っておりました。
【和田倉見附門】
【現在の和田倉門】
【和田倉噴水公園に残る渡櫓門の石垣】
【和田倉濠より道三濠に注ぐ辰の口(江戸図屏風)】
まさに、『歴史は物語る』。江戸会津藩上屋敷跡を見に行き、会津藩は、まちがいなく徳川幕府にとりまして最重要な藩であったことを再認識できてとても嬉しくなりました。
【記者 鹿目 哲生】
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