新撰組局長の近藤勇は、現在の東京都調布市上石原の宮川家の三男として1834年10月9日に生まれました。人見街道沿いにある生家跡には、現在でも勇が生まれたときに産湯を沸かすために使われた古井戸と、昭和に入って建てられた近藤神社が残されております。
【近藤勇生家跡】
【近藤神社】
【産湯の古井戸】
近藤勇は、剣術道場・試衛館に入門。創設者の養子となり、天然理心流を継ぐ。将軍・家茂の警護を行う「浪士組」に参加し、京へのぼる。京都の治安維持部隊として会津藩配下となり「新選組」の名を拝命。新選組局長となる。三条の旅籠「池田屋」で、尊皇攘夷派浪士を襲撃。多数を殺傷、逮捕する。新選組から離脱した伊東甲子太郎、藤堂平助らを斬殺。身内の粛正に追われているうちに、鳥羽伏見の戦いが勃発。
鳥羽伏見の戦いで敗戦し、軍艦で江戸に戻った後、近藤勇たちは勝海舟との話し合いをします。ここで、「甲陽鎮撫隊」と名を変えて、甲州(山梨県甲府)の反乱や暴動を収める名目で甲州に向かうことになります。新政府軍への恭順派の勝海舟が、武闘派の新選組を江戸から遠ざけたとも言われています。近藤勇は「大久保大和」、土方歳三は「内藤隼人」と名を変えます。そして、甲陽鎮撫隊を率いて旧甲州街道を西に向かいました。近藤勇は、大名が乗る格式が高い駕籠、「長棒引戸」(長い棒がついて数人でかつぐ駕籠。入口はすだれではなく引き戸になっている形式)の駕籠に乗っていました。土方歳三は断髪し、写真でよく知られる洋装姿で馬に乗っていました。そして、近藤勇の故郷である上石原宿に差しかかり、「西光寺」の境内で休息しました。近藤勇は上石原村に入ると、乗っていた駕籠を降り、氏神の上石原八幡神社を遥拝(遠くから拝むこと)します。「西光寺」で休息し、西光寺向かいにあった名主の中村家で歓待も受け、村人に歓迎されながら、村境まで歩いたという伝承もあります。大名格になった近藤勇が、故郷に錦を飾ったひとときでした。この後、甲陽鎮撫隊は甲州勝沼の戦いで敗れ、江戸に敗走。近藤勇は西洋医学所で永倉新八や原田左之助と袂を分かち、足立区綾瀬から流山へと転陣。流山で新政府軍に囲まれて出頭し、板橋で斬首となります。享年35歳。
【西光寺の近藤勇像】
【西光寺】
京王線「西調布駅」の近くにあります「西光寺」の近藤勇の銅像は、威風堂々の風貌で圧倒されました。西光寺は素晴らしい古刹です。
近藤勇のお墓が全国に3つあるとされています。その中の一つが東京都三鷹市にある龍源寺は、徳川家光の時代に建てられた曹洞宗のお寺です。近藤勇の実家である宮川家ですが、この龍源寺が菩薩寺でした。近藤勇が斬首された翌々日の4月27日、遺体を龍源寺まで運び出すため、近藤勇の甥である近藤勇五郎や長兄宮川音五郎ら門人合わせて7人で、板橋に埋められた近藤勇の首のない遺体を掘り起こしました。その際は板橋刑場の番人に包金銀を握らせ、人気の少ない夜間に行われたそうです。そして、約20kmの道のりを経て運び出し、龍源寺に埋葬したと言われています。
【龍源寺の近藤勇の墓】
【龍源寺】
近藤勇のもう一つのお墓は、現在の東京都にある板橋駅を出てすぐの場所にあります。明治9年に永倉新八(元隊士である杉村義英衛や医師である松本良順ら)により、近藤勇と土方歳三の供養碑が建てられました。のちに、近藤勇の胴体はこの地に葬られたそうです。板橋で罪人として斬首された近藤勇であったため、立派なお墓を建てられることもなく埋葬されていました。そのため、供養碑が建てられる前は大きな石を墓石代わりとして使用されていたそうです。最近では、近藤勇の133周忌として敷地内に銅像と石碑が建てられています。
【板橋駅近くの近藤勇の墓】
そして、最後の三つ目の墓が福島県会津若松市の天寧寺にあります。天寧寺の境内には、土方歳三が建てたとされる近藤勇のお墓があります。土方歳三により、お墓には近藤勇の遺髪が埋葬されたそうです。天寧寺にはさらし首も葬られたという説もありますが真相は未だに分かっていません。天寧寺では近藤勇の命日である4月25日に墓前祭りが開催されます。
【会津若松市天寧寺の近藤勇の墓】
【天寧寺】
新選組局長の近藤勇にゆかりが深い調布市内にこんなに見所が多いとはこれまで全く知りませんでした。新型コロナウィルスの影響で不要不急の外出を自粛している中、近藤勇の生家跡、ゆかりが深い西光寺、お墓がある龍源寺と近藤勇の足跡を辿りましたが、私以外に訪問される方は全くおらず、各所ゆっくり見ることができました。
【記者 鹿目 哲生】
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