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2020年06月号 vol.32

十津川郷紀行 「田中光顕歌碑」を訪ねて 

2020年05月31日 20:34 by tama1
2020年05月31日 20:34 by tama1

十津川郷紀行「田中光顕歌碑」を訪ねて

  十津川村大字上湯川大檜曽 「天誅組150年事業」における「天誅組史跡を訪ねてのバスツア-」にばあばとともに 一泊二日の十津川ツア-に参加したのが、2013年10月5日。早いものであれから7年、 私の天誅組歴も年を重ねる毎に広がりをみせ、幕末史の中での十津川郷や郷士たち に深い関心を抱くようになっておりました。 そんな中、今や五條から十津川役場前まで、車で1時間半強で行けるという。新しい トンネルが二つも開通したことで、大幅な時間短縮となったとのことです。そこで、友人 のNPO法人維新の魁天誅組内倉幹事長にお願いしてお付き合いを願いました。 昨今、夙に天誅組に関心をお持ちのO先生とSさんにもお声をかけ、四人で風屋~ 小原~上湯川を回って参りました。

  風屋では、天誅組参加の十津川郷士「前木鏡之進」のご子孫宅に訪問(次回に投稿)後、 小原で昼食をとり、「十津川村歴史民俗資料館」を訪れました。

 初めて十津川村を訪れたO先生とSさんは途中、野尻にある中井庄五郎の生誕地碑に 大変なる反応を示されました。

 それも、その筈、車中では聞き慣れぬ十津川郷士たちの名前に、ただ頷くばかりでした から、「天満屋事件」の立役者の一人、居合抜きの達人、中井庄五郎の名前が出てきた 途端、これだけでも十津川に来た甲斐があったと、喜んでいただきました。

  ので、ここ、資料館に展示されている中井庄五郎の刀などを拝観している間に、私と 幹事長は吉見真理子副館長さんに上湯川への道を教わっておりました。 吉見さんは、ご存知天誅組紀行の著者吉見良三先生のお嬢さまで、ここ資料館では学芸 員兼副館長さんとして勤務されています。来年度は、YSBにもお越し頂いて、幕末の 十津川郷士について講演をしていただきたくお願いしているところです。

  十津川村の中心地、役場前から上湯川まで、凡そ25kmですが、約一時間かかるとの こと、なるほど大変な道でした。果無し山とはよく言ったもので、携帯の電波も途切れる 箇所も多く、文字通り山間の道を緊張の連続運転でした。それでも一日、2回、乗合バス が走っているようですが、とてもじゃないが、素人の我々では自前のバスツア-は無理 のようです。来年の十津川ツア-の下調べを兼ねて上湯川までの試運転ですが、流石 の運転巧者の内倉さんもガードレ-ルもない、この道は怖いとの言!

 大桧曽のバス停から少し登った所に案内標識があり、数軒しかない民家の一つ、 Nさんと仰るおばさんが、親切にもお茶を出してくれ、「こちらにかけてゆっくりしなさ い」とお声をかけてくれました。何でも、一年に2、3人は田中光顕歌碑を訪ねて来られ るそうです。勿論、歌碑のある場所を教えていただくばかりか、栽培している椎茸を我々 四人にプレゼントしてくださいました。本当にきさくな気のいいおばさんでした。

 お願い 碑表面には、 慶応元年の春果てなし坂の上にて 父母のすみます國は見えながらふみもゆるさぬ 関守は誰ぞ 昭和十二年春録舊作 九十五叟 光顕 と刻まれています。

建碑者は田中主馬蔵の縁故者で、千葉久美、阪倉淳吉の兄弟とあります。 また、歌碑の傍らには田中主馬蔵碑或いは夫婦墓と思われる墓石があります。

 田中光顕歌碑の場所、果無坂から大桧曽一帯を見下ろした景色ですが、此処だけは 歴史が止まっているような感がしました。数軒しかない山間の村の景観は今も昔と変わ らないようで、光顕も主馬蔵宅に匿われていた間、毎日この景色を見ていたのであろう。

 

 

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