[清水の次郎長との出会い]
1878年(明治11年)、世の中は西南戦争の余波で不穏な空気が漂っていた。五郎は板垣退助らが創立した愛国社の同志として商人に変装し、東京を飛び出し、京都、山陰道に入り、大阪にしばらく滞在するという、またしても突拍子もない行動をとったのである。心配した山岡鉄舟は五郎の友人に手紙を託し、見つけ出した五郎を静岡に呼び寄せ、こっぴどく叱り、そして五郎を清水次郎長に紹介するのであった。そして山岡鉄舟は次郎長にこう言ったのである。「親分、私は親分に預かって欲しい者がいる。この眉毛の太い愚か者なのだが、しばらく預かってはくれぬだろうか。尻焼猿なので山に置いてもらっても一向に構わない。」(尻焼猿とは江戸の言葉で、物事に飽きやすくひとつの事を成し遂げることが出来ない人間の事を言う。頭が痛い!筆者もそのひとりである。)次郎長もさる者で、その意を察し「わかった。任せてくだされ。あまりに狂った時には、胴体を切り離して歩けないようにしてしまうので。」と冗談交じりに言葉を返し、五郎を清水の港の次郎長宅に連れて行ったのである。
また、山岡鉄舟にはもう一つ、次郎長の縄張りと義侠で、五郎の父母妹を探すことが出来るのではないかという考えもあったのである。
こうして東海道の侠客次郎長に託された天田五郎は、次郎長の子分達に「五郎さん、五郎さん」と呼ばれ親しまれたのである。
1879年(明治12年)、五郎は一時帰郷して福島町に転居した兄を尋ね、そして相談の上、諸新聞へ懸賞金百円の父母妹捜索の広告を出したのである。これが日本で初めての懸賞金広告であった。当時の百円といったら今の金額に換算すると200万円くらいに相当するのだろうか。平藩が消滅したとき藩士たちに配られた家禄奉還金を兄が持っていて、二百円を五郎に渡しそのうちの百円を懸賞金に充てたのである。
懸賞金付き父母妹探索の新聞広告
明治十四年二月二十三日・朝野新聞
その後、五郎は東京浅草の江崎礼二の内弟子となって写真術を習ったのである。旅回りの写真屋となり伊豆から駿遠甲信、更に奥州までも巡り父母妹を捜したが見つからなかった。
1881年(明治14年)、五郎は清水港に帰ってくるのであるが、この年の2月、政五郎の名で次郎長の養子となっていた大政が亡くなり、五郎は大政・小政に継ぐ三番目の次郎長の養子となったのである。名は天田五郎改め「山本五郎」そして東海道の宿場で多勢のならず者を相手にする身となったのである。次郎長の風格は五郎をひきつけ、次郎長の人間性は五郎の肉付けとなった。
この年、五郎は次郎長の富士の裾野の開墾事業の監督をすることとなる。この開墾は次郎長が多くの子分達に産業の道を開いてやるために計画したものだったが、もともと放縦な暮らしになれた博徒達を指揮するのだから能率は上がらなかった。苦心の経営はついに実らなかったのである。
開墾に従事した清水時代の天田五郎
次郎長の魅力に惹かれていた五郎は、世話になってすぐの頃から次郎長の事を記した「次郎長物語」を書いていた。1884年(明治17年)、次郎長本人や古くからの子分達からいろいろ話を聞いて書きあげたのが「東海遊侠伝」である。
東海遊侠伝・一名次郎長物語
著者:山本鉄眉(天田五郎のペンネーム)
現在、次郎長について詳しくわかるのは、この東海遊侠伝のおかげであると言える。次郎長は自分の無学を恥じてひらがなやカタカナが読めるように勉強をしたのだが、「東海遊侠伝」は漢文体であったがため、まったく読むことが出来なかったのである。しかし、次郎長は自分の事が本になったのがとても嬉しくて、本を買い占め、来る人来る人にタダで配るのである。また「東海遊侠伝」の中身をネタに売出中の若手講釈師が寄席に上がると、客が押し寄せ会場は溢れんばかりの大盛況で、東海遊侠伝がいかに人気が高かったかがうかがい知れる。しかしこの年の2月、次郎長は全国博徒大検挙にあって静岡の監獄に入獄、そして五郎は次郎長の山本家を離籍し、旧姓の天田に戻って新聞記者になるのである。
(記者:関根)
<続く>次回は「天田愚庵の誕生」
2024年春季号 vol.5
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