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Vol.5

神戸に行って来ました!

2018年02月22日 17:59 by minnycat
2018年02月22日 17:59 by minnycat

神戸で開催されていた「ボストン美術館展」を鑑賞して来ました。

神戸は生まれ故郷で懐かしさで一杯です。 曽祖父が神戸三井の大番頭(嘘か本当かわかりませんが、祖母が口癖のように言っていました)をしていたそうです。ひょっとして神戸海軍塾を開いて神戸に住んでいた勝海舟と親しかったりして、、と勝手な想像をしています。英語が得意だったとのこと、生きていたら、英語を教えてもらいたかったです。

「神戸」という地名は、市内にある生田神社の集落が神戸「かんべ」であったことに由来するといいます。海と山との隙間に細長く市街地があり、それがため十分な水深がある理想的な港となっています。なんと、遣隋使の時代から港があり、平清盛が貿易の拠点として整備しました。明治維新、神戸村が事実上の開港場となり、外国人居留地などが造られ、1879年、正式に「神戸港」となりました。後、上海・香港・シンガポールをしのぐ規模となり、世界にその名を知られるほどに繁栄していきます。高度成長期には、ポートアイランドなどの人工島を整備し、「神戸ポートアイランド博覧会(ポートピア’81)」を開催して成功させ、「世界で最も住みやすい都市」として、日本の都市で唯一トップ10に入っています。「ボストン美術館展」の見学の後は、三宮から神戸港へと散策しました。

三ノ宮駅近くの大丸デパートです。その丁度前に、「三宮神社」があります。

「三宮神社」は、大きな事件があった場所です。

 神戸事件と言います。神戸事件(備前事件)は、慶応四年一月十一日、神戸三宮神社前で備前藩が隊列を横切ったフランス人水兵らを負傷させ、そして、銃撃戦に発展、居留地予定地を検分中の欧米諸国公使らに水平射撃を加えた事件である。同年一月三日、戊辰戦争が開戦され、明治新政府は備前藩に摂津西宮(西宮市)の警備を命じていた。前年の慶応三年十二月、兵庫開港(神戸港)に伴い、徳川幕府の大名行列と外国人の衝突を避けるための迂回路「徳川道」を通らず、西国街道を進んだことが事件の引き金の一つとなった。生田川の河原で撃ち合いとなり、備前側では、家老日置が撤退を命令、双方とも死者も負傷者もほとんど無かった。 急遽、明治新政府は東久世通禧を代表として交渉を開始した。結果、備前藩は諸外国側の要求を受け入れ、備前藩士の滝善三郎を切腹させて、一応の決着を見た。理不尽な植民地支配下に置かれる事態も起こり得たことから、滝の犠牲によって危機回避がなされたのである。もう何度も来ていますが、幕末の生々しい腹切り事件として有名です。

それから、中華街へと向かいました。阪神大震災の時、一番早く復興したのは、この中華街でした。世界各地の華僑の方から同胞へ暖かい手が差し伸べられたとのことです。

中華街で食事をし、元町の商店街にある「ユーハイム」でお茶をしました。「ユーハイム」は、最初、横浜で営業していましたが、関東大震災で焼け出され、ここ神戸で出直し、神戸が本店となりました。本店だけでしか食べられない、素晴らしいショートケーキを頂きました。

神戸には、漢方薬店が多くあります。この燻したマムシやすっぽんはミキサーで砕いてかくはんし、粉にして服用します。「すぐできます」と店の垂れ幕にありました。効きそうですね。

マンホールもレトロで良いですね。

さよなら、神戸、ポートアイランド、また帰って来ますね。

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