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ザ・戊辰研マガジン

Vol.5

会員のブログより、「京都集会・池田屋で呑む」

2018年02月26日 06:35 by date
2018年02月26日 06:35 by date

 マガジン5号で紹介するブログは、会員の剛丸先輩(ブログネーム)が平成24年9月16日に京都市で開催されました、戊辰戦争研究会関西支部主催の「京都集会」の模様です。翌年の大河ドラマ「八重の桜」の放映前に新島八重関連の史跡をめぐりました。
 このブログはあくまで個人のブログですので、記載・感想は個人の判断です。皆さんお読みになり少しでも戊辰戦争研究会の風を感じられればよろしいかなと思います。
 
 先週の日曜日は京都にいました。 京都といっても関西の京都府の京都です、決して北千住の「クラブ京都」ではありません。 京都には私が参加する歴史研究会「戊辰戦争研究会」関西支部主催の史跡巡行に参加するために京都に行きました、決して「クラブ京都」の美抄ママに会いに行ったわけではありません、世間の皆様に誤解のないようお願いします、ホントだってば。  

 今回の集合場所は「京都駅中央口」でした、でも京都は10年ぶりの私ですので「中央口」が分かりません。新幹線の中央口に行ったり1階や2階の中央口に行ったりと迷いましたが、携帯電話で連絡をとり、在来線の中央口に辿りつきました、京都駅には巨大な駅ナカ広場がありました、そこが「中央口」だったのです。  その中央口に会津の旗が2旗ひらめいていました、京都には「會」の旗が似合います。  

 まず、京都駅から地下鉄に乗りました、私は京都に地下鉄が走っているとは知りませんでした。 それほど京都は知らない土地なのです、私の高校は修学旅行のない学校で、京都も奈良にも来ていません、唯一来たのは労働組合の仕事で来ただけですので、戊辰戦争を勉強している身分でありながらまったくの京都オンチなのです。  

 地下鉄は「今出川」という駅で降りました、駅の隣は「同志社大学」です、江戸時代は薩摩藩の屋敷でしたここに新島譲(新島八重の夫)が同志社大学を建てたのです、建てたと言っても新島譲は大工さんではありません、新島譲はクリスチャンであると同時に教育者でもあります。  同志社大学の隣は同志社女子大学です、その次は「京都御所」です、御所は広大な土地で高い建物はありません、御所の塀は長い白塀で延々と続きます。御所の広場は東京の皇居と同じように玉石が敷いてありますが、皇居と違うのは自転車で走る人が多いのです、ですから自転車が走る玉石に「獣道」ができているんです、そこを自転車群が走ります。

 御所の西側に立つ蛤御門に立ちました ここは戊辰戦争時の始まる前の「禁門の変」の最大激戦地になった場所です。長州が京都に攻め入り火をつけ暴虐を尽くして京都を火の海にしました、そして事もあろうにこの蛤御門から御所に大砲をぶっ放しました、その音で時の15歳の天皇は気絶したと云います。  蛤御門は今でこそ西から東側に立っていましたが、禁門の変のときは南側に向かって立っていました、 つまり禁門から御所に入るためには一旦門の前で立ち止まり、方向を変えて南から北に向けて入るわけです、ところがそのようにして門を入る人はいません、なぜなら「禁門」と言いまして門を開けることはありませんでした、堅く閉ざされていたのです、それが賊軍の長州が京都に火を付け京都の街を焼いたためにその熱で門があいたのです、そのような様を見てまるで「蛤」のようだとして禁門の事を「蛤御門」と呼ばれたのです。  蛤御門の前に立つとそれほど大きな門ではありませんが、この門を守る会津・薩摩の兵は数百人単位じゃなくて千人を超えたと思います。ここでの戦いでは会津・薩摩の幕府側が勝利します。  ですが幕府軍が長州に勝ったのはここまでです。  

 御所の中の巡った後は、いよいよ新島譲と新島八重が住んだという居宅に向かいました。木造2階建ての瀟洒な西洋風の館は同志社大学が管理していました。暑さのなか歩き疲れた私達は記念館の中でコーヒー休憩です、記念館の2階ではクラッシックコンサートがあり心地よいひと時を過ごしました。  本当にアカデミックな空間でした。

 昼の12時から夕方6時まで京都の街を会津の「會」の旗を翻しての史跡巡行はいよいよ佳境です。 四条河原町の「池田屋」に到着しました、「池田屋」といえば新鮮組が長州の下郎侍達を征伐した場所です。池田屋の階段落ちといえばあまりにも有名です。こんな急な階段から転げ落ちたらさぞかし痛いだろうな(そんな問題じゃないと思いますが・・)。
 

今回の懇親会会場の「池田屋」には大きな階段が1階から3階まで貫いてありました。 これは「階段落ち」の階段を模しておじさんがアイパットを駆使していまた。
(注・会談でアイパットを操作しているのは村田蔵六さんこと故・鈴木さんです)

 今回の宴会セットです、箸入れのダンダラ模様は新撰組です。他にもこの店全体のコンセプトが新撰組で統一されています。  新撰組といえば幕末時代に京都の町を長州らの賊から守ったガードマンです。その偉業に現代でも多くの新撰組ファンが日本に蔓延しています。彼らの活躍は子々孫々にまで伝えられるでしょう。  翌日はその新撰組が屯所として使っていた「壬生寺」に行きました、写真は南門です。  

 今回の京都集会は関西支部の主催で、全国各地から21名が集まりました。東京でも史跡巡行を開いていますが、歴史はやはり現地に立たなければいけません、主宰者の星 亮一先生は常に現地に立てと言っています。

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