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ザ・戊辰研マガジン

Vol.7

戊辰戦争研究会アルバム(寒風澤島)

2018年05月06日 18:40 by date
2018年05月06日 18:40 by date

 

 景勝地である日本三景のひとつに、宮城県の「松島」がある。松島海岸からは観光船の会社が20社ほどあるが、その中で大きな観光船は「仁王丸」である。その観光船に乗って約1時間の松島湾を巡る観光に出るが、その松島湾の最奥に位置するのが「寒風澤島」である。寒風澤島のあたりは松島湾と太平洋の境目にあたり、深水でありながらも投錨できる海域でもある。松島湾という穏やかな湾内であり、多くの島々の陰に船を隠せるため絶好のロケーションでもある、そして寒風澤島には人が住んでおり、近くにも人のいる島が多く、人足や小舟の供給に便利であった。かつ伊達藩の仙台にも近く物資の手配や、会津から転戦した兵士との合流にも都合がよかった、ここに150年前の明治元年(慶応4年)に、榎本艦隊が江戸から脱出して集結した場所でもある。

 寒風澤の地は藩政時代には、北上川・阿武隈川を伝ってきた岩手や山形・福島のコメをここに集めて、ここから大型の船に積み替えて河村孫兵衛が開発した東回りの航路を使い江戸まで運びました。東北の繁栄の一翼を担った地でもある。

 さらに明治元年に蝦夷地に向かうべき榎本艦隊が、ここ寒風澤、東名浜そして石巻の折浜に順次集合して、薪・水、食料の補給、さらには仙台藩の額兵隊や大島圭介率いる伝習隊、そして仙台で集めた仙台新選組らの兵を集め、明治元年10月12日に石巻・折浜を出港するまでの46日間寒風澤に逗留していました。だがこのことが明治新政府から仙台藩の内乱であるとの指摘を受けて、東京にいた伊達藤五郎邦成が急遽もどり、一日遅れで榎本艦隊に乗り遅れた玉蟲左大夫を捕縛しました。
 ここに玉蟲左大夫の悲劇が始まります。

2018年3月 伊藤 剛 撮影

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