写 真は岩手県庁近くの、「石割桜」のそばに建つ原 敬(ハラ タカシ)の銅像である。
原敬は安政3年(1856年)2月に盛岡市近郊で生まれた、原敬の家系は南部藩家老を務めた上級武士であった。その由縁により戊辰戦争終結時に戦争責任の責めを一身に受けた家老楢山佐渡とは面識があり、楢山佐渡の切腹時には報恩寺の塀に近づきを涙を流したという。
原敬の家柄は上級武士であったが、20歳の時に分家して戸主となり平民籍に編入となった、当時の徴兵制度では戸主は兵役義務から免除されていた。
原敬は大正7年(1917年)に爵位を持たない衆議院議員として、史上初の内閣総理大臣となり「平民宰相」と呼ばれた。
原敬は大正6年(1918年)9月の旧南部藩士戊辰殉難者50年祭における檄文で「誰か朝廷に弓を引くものあらんや、戊辰戦役は政見の異同のみ、当時勝てば官軍、負ければ賊軍との俗謡あり」と述べ、奥羽越列藩全体の「逆賊」という汚名を注いだ。
しかし総理大臣原敬は、大正10年11月4日に東京駅丸の内南口にて右翼少年にて暗殺された、65歳であった。
原敬の銅像は静かな敷地の中に建てられ、静かに盛岡の街を臨んでいるようであった。
「白河以北一山百文」という明治新政府からの蔑みの言葉の中から「一山」という文字を雅号にして、東北の名誉を守り汚名返上にその生涯を貫いた。
平成29年9月撮影 記者 伊藤
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