西口紋太郎著「天誅組重阪峠」より 文久三年(1863)8月25日、吉村寅太郎率いる第二隊は「風の森峠」に陣を布いた。
奈良県御所市鴨神「風の森神社」 説明板によると、本社は、旧高野街道風の森峠に位置しています。 御祭神は、志那都比古神(しなつひこのかみ)をお祀りしています。志那都比古神は風の 神であり、古事記、日本書記には風の神に因んだ事柄が記載されています。また、葛城 地方は、日本の水稲栽培の発祥の地ともいわれており、風の神は、五穀みのりを、風水害 から守る農業神としてまつられています。 日本では、古くから風の神に対する信仰があり、毎年旧六月には、各地で薙鎌を立てて、 豊作を祈る風祭が行われているとあります。 さて、本題の天誅組吉村隊に話を戻します。 ここ、風の森峠に陣を布いたのは、郡山藩柳沢の兵が御所(ごせ)へ進出したという情報 が入り、これを迎え撃つためなのです。 神社境内の一画には「天誅組重阪峠」の著者西口紋太郎氏建立の石碑が建っています。
討幕 明治維新の魁天誅組布陣百二十年記念 初秋の爽やかな、風が吹き抜ける時、吉村寅太郎の率いる天誅組第二隊の志士は到着し 陣を布いたのである。そして、鎖国日本の夜明けを告げる陣太鼓の音がこの頂上より大和 国に轟き渡りホラ貝の音が高らかに鳴り響いた。それは文久三年(1863)八月二十五日の 昼頃であった。 西口紋太郎著「天誅組重阪峠」の一説より 昭和五十八年(1983)八月二十五日紋太郎著 昼でも薄暗く小さな祠を前に吉村隊は戦勝を祈願したのであろう。目を閉じてしばし瞑想 してみるに、155年経った現在でも、その場面が浮かんでくるようでした。 さて、頂上の神に戦勝の祈願を了えた第二隊長吉村寅太郎は、頂上近くの南郷屋徳平宅の 縁側に腰を下ろして休息していた。南郷屋徳平とは現当主米田勇氏の曽祖父である。と 米田(こめだ)家は風の森神社石段下に「米田」という表札があるお宅ですぐに見つかり ました。
間口、奥行きとも当時の面影を残す、大きなお家でした。 風の森~高鴨神社~名柄へと続く「美しい日本の歩きたくなる道500選」にも選ばれて いる「葛城の道」が家の前を通っています。 例によってインタ-ホ-ンを押して訪問の目的を申し上げ、お話をお伺いたく申し出ます と、奥様が出て来られ、親切にもお家の中へ通してくださいました。 応接居間には、沢山の仏像彫刻作品が並べられていました。6年前に亡くなられた勇氏 趣味で創作されたもののようです。 奥様のお話では米田家は代々「南郷屋」と呼ばれたそうで、近くの南郷遺跡地区の名称 からとったのか、屋号だそうです。その曽祖父徳平さんから語り継がれている物語がこの 本に、下記のように記されています。 縁側に休息した吉村寅太郎は村役人や百姓を集めて、米の徴発を命じたが、近くには、 徴発に応じられる農家は一軒もない。しかし、風の森峠の西方、高鴨神社前のいはゆる 葛城の道を北へ約1キロメ-トルほど行くと北窪という村がある。そこに窪田助左衛門と いう大長者がいた。窪田は近郊近在きっての大地主で、毎年質米(しちまい)、年貢米合 せて、千石以上の米を倉庫に積み上げたといわれていて、名字帯刀まで許された実力者 であった。徳平からその話を聞いた吉村は直ちに窪田へ隊士を派遣した。 この米の徴発の状況について、風の森峠よりすぐ西の、鴨神の幸田政治郎翁は古い昔の 記憶を思い起こしながら、ぽつんぽつんと語ってくれた・・・その話は次々回に。
この広い庭に村役人や百姓を集めて、吉村寅太郎は米の徴発を指示したのだろうか? 金剛山から吹き降ろす風は稲作に欠かせないものであるが、反面、台風などの暴風は人に 大きな被害をもたらします。そのためにこの地でも風の神が祀られるようになったのだろう。 寅太郎も縁側に腰を下ろして金剛山を眺めたのであろう。見事な景観は今も昔も変わらぬ ものでしょう。私も、眼前に広がる金剛山麓に思わず見惚れてしまい、暫し動くことが出 来ませんでした。 「風の森」といえば吉村寅太郎が陣を布いた7日前、この地を通過した同志伴林光平の ことを書かねばなりません。それは次回に。
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