文久年間はテロリストたちを中心に攘夷の嵐が蔓延していた時代。
幕府はテロが横行する京都の治安を守る為には、京都所司代と京都町奉行だけでは限界があると判断し、新たに京都守護職の設置を決断したのである。
本来、彦根藩井伊家が京都守護職に就く事になっていたのだが、彦根藩主井伊直弼が桜田門外で暗殺されてしまい、後継の井伊直憲13歳を京都守護職にするには荷が重過ぎる。また、公武合体を推進していた薩摩藩が、幕府と朝廷を結ぶ要職に就くことでいっきに政治の表舞台へと躍り出る好機と捉え、藩主島津茂久を京都守護職に任ずるよう運動を展開していたのだが、そのさなか生麦事件が勃発し藩主茂久は謹慎処分となり、京都守護職就任は見送られた。
幕府が薩摩藩と並行して京都守護職任命を押し進めていたのは会津藩であった。彦根も薩摩もダメとなれば残るターゲットは会津しかいない。なんとしても会津をねじ伏せるしかなかった。会津藩は江戸湾警備等で財政は圧迫しており、家老から誰ひとりとして京都守護職就任に賛成するものはいなかった。しかし幕府は、会津藩は代々「将軍家の守護」を家訓としていることを指摘し、会津藩主松平容保に言い寄り屈服させたのである。
この松平容保を屈服させたのが徳川慶喜、そして越前福井藩主の松平春嶽であった。
会津人の松平春嶽に対する恨みは相当深いものがあるのではないかと思うのであるが、ここからは京都守護職の話ではなく、松平春嶽が幕政に対し行ったひとつの苦労話を紹介したいと思う。
松平春嶽
全国の大名が2年に一度江戸へ赴き、軍役奉仕を行う江戸時代の基本制度を参勤交代と言う。その費用は莫大な金額に登り、藩財政を圧迫。幕末には多くの藩が破綻寸前に陥っていた。おりしも当時は異国船が相次いで来航、一刻も早い防衛力の強化とそのための藩財政の立て直しが叫ばれていた。もはや参勤交代をしている場合ではない、越前福井藩主松平春嶽が改革に立ち上がったのである。
春嶽は参勤交代の大胆な緩和を幕府に提言、大名の負担軽減と防衛力強化を訴えたのだ。だが、参勤交代は将軍と大名の主従関係を確認する幕藩体制の根幹。徳川の伝統を変えることは出来ないと周囲は難色を示した。そして幕末という時代の激変の中、春嶽自身も政治生命を絶たれかねない危機に直面するのである。
幕末の名君と言われた松平春嶽の人物像をうかがい知る資料が福井県立図書館に保管されている。藩主として参勤交代の江戸での勤めを終えた春嶽が領国の福井へ帰るまでの13日間を記した旅日記だ。江戸を出て間もなく、農民たちの暮らしぶりを目にした春嶽はこんなことを書き綴っている。“裕福なら牛や馬を使えるが貧しいとそうはいかぬ。もし百姓の苦労や実情を知らぬ大名がいたら嘆かわしきこと。その大名は犬猫にも劣る。一国の主たるものどんな世であろうと領民を慈しむ政治を目指さなくてはならない。”その政治信条を培ったものこそ多くの大名が苦しめられた幕末の財政難であった。
積もりに積もった福井藩の借金、その総額はおよそ90万両。現在の価値にして450億円もの規模に膨れ上がった。そのしわ寄せが領民達の年貢にのしかかり、領内では一揆や打ちこわしが頻発、危機的な懐事情から藩主の春嶽でさえ食事は白米に一汁か、白米に一菜のみ、粗食で耐えしのぶ有様だった。幕末多くの藩が同じような財政難に苦しめられていた。その最大の原因が毎年莫大な経費を必要とする参勤交代だった。多くの家臣とともに江戸と領国を往復するその旅路は、宿代だけでも尋常でない金額になった。2000人ものお供を連れていた大大名加賀藩の場合、一泊にかかる経費は1千万円以上、江戸までの片道の宿泊費は高額2億円に登ったという。少しでも宿泊日数を減らそうと、日の出から日の入りまで早足で歩き続ける涙ぐましい努力をする大名も少なくなかった。さらに江戸へ人質として差し出した藩主の妻子が暮らす江戸藩邸の維持費や人件費も高額なものになった。5000人もの藩士が江戸藩邸に詰めていた加賀藩では年間予算のおよそ半分、50億円もの大金を江戸で費やしていたという。それなら参勤交代の規模を縮小すればいいのではないかと思う。ところが事はそう単純なものではなかったことを示す資料がある。これは大名や武士と取引をする御用商人たちが使った武鑑と呼ばれる江戸時代の紳士録。各大名の名前や石高のほか、参勤交代で幕府から携帯することが許された武器の種類や数までもが事細かに記され、それが大名の格を表した。実は江戸に暮らす庶民は、この武鑑を大名行列を見物する際のガイドブックとして活用していたため、大名たちはお家の威信にかけて格を下げるような行列にするわけにはいかなかった。しかもこの行列は幕府にとっても大名にとってもメリットがあるものだった。
将軍との謁見でも、格に応じて畳の何枚目に座るかが決められ、大名の努力次第でその位置を変えることも出来た。参勤交代は家の格式をめぐる大名同士のせめぎ合いでもあった。
しかしその制度の改革を迫る未曾有の危機が日本を襲う。
嘉永6年アメリカのペリーが艦隊を率いて開国を要求。どう対応するか幕閣は連日議論を交わしていた。しかし一向に意見がまとまらず、結論を出すことが出来ない。時の老中阿部正弘は、全国の大名に意見を募る幕府としては異例の試みだった。そして一通の建白書が幕府に届く。その差出人こそ当時26歳の福井藩主松平春嶽。建白書の内容は幕府にとって衝撃的なものだった。
全国の大名達は参勤交代で疲弊しきっております。この国難に対峙するには江戸に散布する大名を帰国させ、挙国一致で軍備を整えるべきではないかと存じます。なんと春嶽は、異国に立ち向かうには、諸藩の財政を圧迫する参勤交代を緩和する必要があると幕府に訴えたのだ。しかし将軍への忠誠の証である参勤交代の改革を主張すれば、幕府から反逆を疑われ処罰されてもおかしくはなかった。なぜ春嶽は危険を顧みず改革を訴えたのか。
春嶽が生まれた田安徳川家は、八代将軍吉宗に始まる家柄。春嶽は11代将軍家斉の甥にあたり、12代将軍家慶のいとこ。まさに幕末のサラブレッドだったのである。ところが幕府は春嶽の意見を却下する。その理由を老中の阿部はこんな言葉で語っている。
幕府を人体に例えれば、大名の参勤は骨の最大なるもの。骨を砕いてしまえば取り返しがつかない。
納得がいかない春嶽は、当時最も英明と評判の高かった薩摩藩主島津斉彬に自分の意見を説き、幕府説得の協力を求めた。しかし斉彬は、建白は至極ごもっともと春嶽に同意は示すものの、親藩大名の貴兄ですら幕府から睨まれているのに、外様の自分に言えるわけがないと答え、幕府の前で突飛な言動は差し控える様、逆に釘を刺されてしまったのだ。それでも春嶽は参勤交代の改革を求める建白書を幕府に出し続けた。「江戸が戦場になる危険もあるので、江戸にいる大名の妻子は国元へ帰すべきです。大名が参勤のたびに幕閣に渡す献上品も一切廃止。江戸への参勤も3年に1度にしてはいかがでしょうか。」しかし幕府はまったく姿勢を崩さなかった。
諸大名の忠誠と服従を繋ぎとめてきた参勤交代を緩和したら、幕府の権威は一気に崩壊しかねない。そんな危機感が幕閣にはあったのである。ではこのまま何も変えなくていいのか。孤軍奮闘する若き春嶽の前に大きな壁が立ちはだかっていた。もはや自分一人の意見だけでは状況は変わらない。そう判断した春嶽はある行動に打って出る。
それは同じ志を抱く大名とともに党派を組み、幕府の政治を変えようというものだった。春嶽は水戸の徳川斉昭、薩摩の島津斉彬らと共に英明と評判の高い一橋慶喜を次期将軍に推薦する。さらに安政四年8月、春嶽は江戸の藩邸に徳川家と親しい大名たちを招いて会談、参勤交代などを改革の声を一緒にあげてほしいと協力を要請した。春嶽の意見を聞いた徳島藩主の蜂須賀斉裕は、神君家康公以来の法に触れるのは幕府に不信を抱かせると難色を示した。それでも春嶽は引き下がらない。諸大名の財政回復こそ錬金に励む余力を大名に呼び、結果幕府のためになると改革の意義を力説した。
その春嶽の熱い思いにじっと耳を傾けるものがいた。鳥取藩主池田慶徳だ。慶徳はその後も春嶽と会談を重ね、大名の声が変化変革の響きになるという春嶽の言葉に共感。会談後幕府に建白書を提出した。
やがて春嶽達に同調するかのように、幕府内からも参勤交代を見直すべきとの意見が出始めた。特に海防を担当する海防掛り大目付は改革の必要性を痛感、こんな意見書を提出している。
参勤交代の緩和が諸藩の出費を減らし、海防強化の一助になる。春嶽が参勤交代の緩和を主張してから4年、改革の気運は高まりつつあった。
ところが一人の男が春嶽の前に立ちはだかる。譜代最大の大名、井伊直弼である。次期将軍に御三家紀州の慶福を押した井伊直弼は、14代将軍を巡る主導権争いに勝利。安政5年、一橋慶喜派の一斉弾圧に乗り出す、世に言う安政の大獄である。
春嶽は隠居謹慎を命じられ、江戸藩邸で逼塞生活を送ることとなった。この時の心境をうかがわせる手紙が残されている。黒黒と押された両手の手形。その間に記されているのが朝夕にこれを眺め私が目の前にいるものとして突飛な行動は慎むべしという言葉であった。
井伊直弼の強硬な姿勢にいきり立つ家臣達に対し、自らの手形を持って今は耐え忍ぶようにと戒めた。春嶽32歳の手形である。
2年後春嶽を謹慎に追い込んだ井伊直弼は桜田門外で暗殺される。幕府の権威は急速に傾き始めた。しかし春嶽の謹慎が解かれることはなかった。謹慎は実に4年にも及んだ。参勤交代の緩和の先に春嶽はどんな理想を思い描いていたのか。
虎豹変革備考。春嶽が文久年間にイギリスの政治体制を参考に、自らの政治抗争を記したものと考えられている。 上院の巴力門と下院の高門士。この二院で構成された議会を作り、幕府には行政の身を委ねる議会制度を構想していた。上院の巴力門の議員には有能な諸大名が列席し、下院の高門士の議員は武士や庶民、百姓や町人までをも参加させるべきと説いている。春嶽は参勤交代の改革を突破口に、近代的な政治体制の導入を模索していたのである。井伊直弼の暗殺から2年後の文久2年、時代は再び大きく動く。
薩摩藩の島津久光が藩兵1000人を率いて上洛。朝廷を後ろ盾にして幕府に政治改革を要求しようとした。これは春嶽を大老に、慶喜を将軍後見職に就任させ、幕政の助けとすべしというものだった。これに合わせたのが江戸の老中達だった。
朝廷や外様大名である薩摩の要求を受け入れ、幕政改革が行われるような事態になれば権威はまさに地に落ちたも同然。春嶽は謹慎を解かれ将軍家茂のもとへ呼び出された。欧米列強への対応をめぐり亀裂が生じていた朝廷との関係を修復、いわゆる公武合体の実現に向けた交渉役を依頼されたのである。春嶽にとってそれは将軍の依頼と引き換えに参勤交代の改革を迫る絶好のチャンス。しかし幕府の権威が落ちたこのタイミングで行うのは大きなリスクをはらんでいた。この時の春嶽の思いはこうだ。
直近の政治課題は異国の脅威から日本を守るための国防力の強化だ。そのためには大名たちを財政難に陥れた参勤交代の緩和を今すぐにでも断交するほかない。多くの大名たちが心の中で望んでいる参勤交代の緩和を、将軍の名のもと幕府自らが実行すれば、地に落ちかけた権利と信頼を取り戻すことも出来るかもしれない。他にも改革しなければならない問題はごまんとある。ここは今すぐ改革断行を主張。参勤交代の緩和を始め、これまでの独裁的な政治を幕府に辞めさせ、大名たちと共に国難に挑む協力体制を作り直すのだ。しかし、今更幕府が参勤交代を緩和したとして、果たして求心力の復活にどれほどつながるだろうか。今や一外様大名が体を動かすような時代。薩摩や長州など既に独自に軍事力を強化した藩は参勤交代の緩和をきっかけに幕府からの利胆を強めるかもしれない。徳川恩顧の大名にも参勤交代の緩和を危険と見る声は多い。ここは朝廷との公武合体を最優先、幕政の安定を見てから参勤交代の改革に乗り出すべきか。しかしそれではいつまでも大名達は財政難に苦しむ日本を守ることなんて出来なくなる。
春嶽は同じ志を抱く有力大名と連携するなどして、様々な方法や構想を抱いて改革を実現しようとした。
参勤交代の緩和を今すぐ幕府に迫るか、それとも時期を見直すか、将軍を目の前に春嶽はどう答えたかその時の言葉を家臣の一人が書き残している。「今や公平無私のご英断無くして日本を世界を越して行く国にすることなど出来ません。国としての改革方針を幕府自らが定めないのであれば、いかに朝廷との関係修復が将軍の命令だろうとお断り申し上げます。」
なんと、春嶽は将軍自らが不退転の覚悟で幕政の改革に臨むことを約束しなければ、従うつもりはないと言い放ったのだ。
その上で老中等に対し、速やかに徳川最優先の政治を改め、大名たちを苦しめる参勤交代の緩和をはじめとする政治改革の実行を迫ったのだ。改革の時は今をおいて他にない。それが春嶽が下した決断だった。
文久2年7月、幕府は一橋慶喜を将軍後見職、春嶽を幕政改革の司令塔である政治総裁職に任命。そのひと月後、幕府はついに参勤交代の緩和を布告した。
この改正により参勤は2年に1度から3年に1度に変更、遠方からやってくる外様大名などは江戸での滞在日数をおよそ100日に短縮、江戸にいる間は幕府に政治的な意見を積極的に具申するよう国政への参加意識を求めた。
人質だった大名大使の帰国も認められ、大名たちを最も苦しめていた江戸での経費削減を春嶽は実行していった。
効果はてき面だった。全国の藩で藩政改革が進んで行った。大名達はこぞって軍艦や大砲を購入、それまで出来なかった軍事力の増強と産業育成に力を入れ始めた。その喜びから鳥取藩主池田義則は春嶽にわざわざ感謝の手紙を送っている。
此度の参勤交代の改正は諸藩にはありがたい。軍備の充実によって国威と国力を挙げられる。春嶽が実現した改革は、日本の富国強兵を実現する300年来の後人生、稀に見る幕府の英断だと諸藩から歓迎されたのである。しかし、その先に春嶽も想定し得なかった時代のうねりが待ち受けていたのだ。
それは急速に発言力を強めていた朝廷、春嶽たちが幕政改革に乗り出した2ヶ月後、朝廷は大名に対し、帝のいる京都の治安を守るよう次々に京都警護を発令。幕府を通さず天皇が直接諸大名に軍役奉仕を求めたのである。
強硬な攘夷派で知られた公家の三条実美は、将軍後見職の一橋慶喜に対し諸大名の参勤は京都と江戸で折半しようと持ちかけさえしたのだ。
文久三年2月、将軍家茂はかたくなに攘夷を主張する朝廷に開国を容認してもらうため江戸を出発、その交渉役を任された春嶽は将軍上洛の数ヶ月前から朝廷と開国容認の交渉を続けていた。しかし孝明天皇は一向に認めず、攘夷実行日の決定を春嶽に迫る有様。交渉は暗礁に乗り上げていた。幕府と朝廷の板挟みとなった春嶽を皮肉り江戸で作られた狂歌がある。
“春嶽とあんまのような名をつけて上を揉んだり下を揉んだり”
さらに盟友であったはずの一橋慶喜との間にも、政治方針をめぐる対立が生まれていた。春嶽はついに辞表提出、政治改革の道から離脱してしまうのである。
その後日本は本格的な激動を迎える。元治元年幕府は京都で戦を起こした長州藩を処罰するため、諸大名に出兵を命じた。さらにその一か月後、幕府は参勤交代の復旧を発令する。大名への統制力を再び強化しようというのが狙いだった。
ところが大名達は国家の大事件だと困惑、一体どのように対応すべきか春嶽にも問い合わせが来る。春嶽はこう答えている。幕命には従わなければならないが、そのまま様子を伺い、もし幕府から催促が来た場合は病気を口実に断れば良い。春嶽から見ても、もはや幕府の衰退は止めようがなかった。慶応三年10月14日、15代将軍徳川慶喜は大政を奉還。仕えるべき将軍がいなくなったことで参勤交代制度は終焉を迎えた。
明治に入ってからの春嶽は文筆業に専念し、数多くの著作を残している。幕末維新期に書いた著書には大変正直な気持ちが書かれていた。春嶽は、幕府独裁を守ろうと反対派を次々に粛清した大老井伊直弼について、徳川家の威光を盛んにせんとの志にて、決して私欲のためにやったことではない。彦根公(直弼)の英断が今に至りては感すべし。
直弼の一連の決断は、今思えば幕府と徳川を思う気持ちからの英断だったと振り返っている。春嶽は自分が行った改革を失敗だったと思っていたのだろうか。その真意が明かされることはなく、明治23年6月、春嶽はこの世を去った。63歳だった。
春嶽はついに参勤交代の緩和を実現したものの、最後は時代の困難の中に飲み込まれてしまうという結末を迎えてしまうのである。
(記者:関根)
2024年春季号 vol.5
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