「西郷どん」第34回「将軍慶喜」 テーマ:いろいろ感想
台風のごとく過ぎ去った慶応 えらく展開の早い34回でした。慶応2年7月20日、将軍家茂が大坂城でなくな り、慶応3年10月14日の大政奉還意思表明までを1回分で終わるとは。これも、 NHKの働き方改革とやらで、2回分を減らしたからでしょうか。その2回分を慶応 2年7月からの1年3か月にあててくれ~と思ったのは筆者だけではないでしょう。 毎回、大河ドラマを見ていますと、少年時代・修業時代をもっと早く進んで、主役が 主体となってドラマの展開を回すようになる壮年時代の尺をもっと取ってくればいい のにと思います。なかなかそうはいかないようですが、信繁の少年時代をすっ飛ばし た「真田丸」でさえ、最後の大坂の陣はもっと多くのエピソードをドラマ化してくれ てもいいのにと思った次第です。
今回の「西郷どん」も西南戦争はあっという間に、駆け抜けるのかもしれません。 薩土盟約の場面が無かったですねぇ。薩摩藩に向けて、龍馬が活躍するエピなのです が。もはや、龍馬は次週で最期を迎えるのでしょう。
四侯会議を資料で読んだことはありますが、ドラマの場面として見たことが無く、 おもしろい設定でした。ちょっと、久光が気の毒なのが今回のドラマ展開です。幕府 の権威失墜を狙った薩摩藩など、反幕府勢力でしたが、政治家慶喜に賢侯と呼ばれた 四侯はかなわず、結局、四侯会議は消滅、薩摩藩は打倒慶喜へと向かっていきます。 島津斉彬存命のころは、徳川も入れた有志大名たちの合議政治をめざしていました が、それから数年が経ち、気ままな大名さんたちの合議では、国が動かせないという ことになり、天皇の名のもとに、吉之助や大久保、木戸ら各藩の下士たちと、公家と の主導による新政府樹立ということになります。
世界的な帝国主義のこの時代、ある意味、力のある国は弱者を取り放題であったわ けで、外国勢力が日本を狙っていたのは事実でしょうし、フランスとイギリスのパ ワーバランスを吉之助や勝がうまく利用していたのも史実です。「利口」な慶喜が領 土の一部を他国に割譲しようとしていたとは思えませんが、高杉でさえ、下関戦争後 の講和で、イギリスが彦島を要求したのを蹴ったといいますしねぇ。 外国公使たちと、慶喜が大坂城で謁見する場面がでてきました。鳥羽伏見の戦いの 後、炎上してしまう、豪勢な大坂城本丸の御殿の一端が垣間見れるセットが組まれて いました。残っていたら、世界遺産になったでしょうに。炎上してしまい、残念なこ とです。将軍在職中、ずっと上方に滞在している慶喜です。京都に外国人を入れるこ とはできず、交渉はもっぱら、大坂城で行っていました。
「ロンドンイラストレイテッドニュース」というイギリスのイラスト付きの新聞を発 刊していた新聞社が当時、日本にワグナーという記者兼、画家を派遣していました。 彼の描いた大坂城本丸での慶喜とパークスとの会見の場のイラストや、将軍が大坂城 内での軍事演習を謁見しているといったイラストが残されています。元治年間に将軍 がオランダに蒸気船を注文した、なんていう記事を読んだことがありますが、おお、 この記事の家茂はライブなのだと感慨深く思った次第です。
兵庫開港(摂海防備問題―大坂湾は京都に近い)は当時の大問題で、日本と貿易した い外国勢力は慶喜をせっつき、異人ぎらいの朝廷は絶対阻止の攻防の中、慶喜が朝廷 側を押し切り、ついに5年がかりで朝廷から兵庫開港の勅許をえました。で、新暦で いう1868年1月1日に兵庫開港、大坂開市するということが決定し、慶喜は外国 に対して、日本の統治者は徳川家であるということを誇示することに成功しました。
民衆が「ええじゃないか」の踊りを踊っている場面が登場しました。ドラマの中に 「打ちこわしがあり」とも出てきて、慶応2年3年の世相が反映されていました。大 坂での「打ちこわし」は江戸期260年の間に、天明の大飢饉のときと、この慶応2 年の第2次征長の2回のみです。幕末の動乱は、大飢饉に匹敵するぐらい民衆を苦し めていたことになります。不均衡な外国との貿易が始まり、それまで国内のみでやっ ていた経済のバランスが崩れた上に、長州征討のために来坂した各藩の大量の武士た ち、また、武士10人につき、一人は必要であった中間と呼ばれる世話人などなど、 従来なら大坂の町にいなかった人々が大挙してやってきました。加えて、動乱の中で 各藩の米が大坂に入ってこず、という状況で経済の町といわれた大坂は大混乱です。
ドラマや小説では、幕末の政治局面での激動がよくクローズアップされますが、経済 面でも大変な時代であったわけです。江戸圏は金相場、大坂圏は銀相場で260年 間、日本の経済は回っていました。金と銀は、今でいうドルと円のような変動相場で 両替がされ、多少の変動はあったものの、安定的に国内経済が回っていたのが、銀の 大量国外流失でそのバランスが崩れ、両替相場が跳ね上がってしまいました。例えば 現代なら、1ドルが100円だったのが、2,3年で500円になったら、経済は大 混乱に・・といった具合です。バランスが崩れたのが大問題で、これを何とか収拾す ることが、明治になってからの新政府の直面した課題となり、造幣局の設立と貨幣改 革へとつながっていきます。
二条城です。現在、表門の家紋は菊で、これは明治になって、西郷が世の中が変わっ たことを知らしめるために変えさせたのだとか。ただ、中に入れば、葵紋が見られま す。
この門は西門と呼ばれ、二条城にはここから慶応3年12月に、慶喜が大坂に 向 かったという言い伝えたがあるとか。大坂城に入るときには馬に乗っていたという証 言があります。
二条城のすぐ近くの若狭小浜藩邸跡碑です。慶喜は二条城になかなか入らず、もっ ぱらここで政務をとっていたようです。
現在は個人宅になっています。 当時の古写真も展示されていました。
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