その二十九 もの忘れ
最近たて続けに同じ店の同じレジで忘れ物をした。
最初は仕事の帰り、書店で登山用の地図を購入、筒状に丸めて手に持って自宅に帰った。はずだったが、家に帰ってから地図がないことに気がついた。
最寄り駅の近くのドラッグストアをよく利用する。そのレジで財布を探りながら地図を手もとに置いて、そのまま忘れてしまったのだ。すぐに電話して事なきを得た。
それから数日後、同じレジでやはり財布を探りながら手に下げていた紙袋を足元に置いたまま店を出てしまった。この時は店を出てすぐに気がついて取りに戻った。
これまで、手荷物を手近なところに置いたら忘れるものだという意識があったので、手荷物は手から離さないようにしていた。その意識さえ忘れてしまったということなのだろう。
この忘れ物2連発はショッキングな出来事であった。
もっとも、還暦を過ぎてふと忘れることが多くなった。
隣の部屋に何かをとりに行くが、部屋に入ったら忘れている。もう一度、元に戻ってしばらくして「あっ」と思い出す。今度は忘れてはまずいと思い、ぶつぶつ用事をとなえながら目的を達成する。
道中で記憶が薄れるような広い家ではないので、2~3歩の間に忘れるのである。ニワトリと一緒である。
冷蔵庫を開ける。なぜか開けた瞬間忘れている。思い出そうとするが思い出せない。「うーん」とうなりながら冷蔵庫を閉める。「バン」という音とともに、閉めた瞬間思い出す。
先日、メガネを掛けたまま顔を洗ってしまった。これはまずいと思った。物忘れの許容範囲がどのあたりなのか、気がかりなこの頃である。
その三十 いい風呂の日
11月26日は「いい風呂の日」だそうだ。ムリのない語呂合わせで「ほう」と納得してしまった。
風呂といえばいつも思い出すことがある。この話には、少々前置きがいる。
小学校の頃の事である。K君という友達がいた。スポーツ万能、成績も良く、ハンサムで、おまけにピアノが弾けた。当時(50年以上前)男の子がピアノを習っているというのは珍しかった。
クラスが同じだったこともあり、よく遊んでいた。
ある日、友人数人と彼の家の庭で遊んでいると、彼のおばあさんがあやめ団子を大皿にいっぱい作ってくれた。そして、庭の隅に生えた笹の茎を折って、笹の香り高い爪楊枝を作ってくれた。「召し上がれ」という日本語を聞いたのはこの時が始めてだった。
そんな彼が思わぬ一面を見せたのが、修学旅行の風呂の時間であった。
子供同士の裸の付き合いは初めてで、例によってお湯のかけっこなど湯船で大騒ぎであった。
すると突然、彼が広い湯船の真ん中で「おらおら!潜水艦だ潜水艦だ!」と言いながら、仰向けになって器用に泳いだのである。「うわーすげー」「でっけー」と大爆笑。
彼は早熟でもあったのだ。水面からつき出した潜望鏡が目の前でぷらぷら揺れていた。
「いい風呂の日」の思い出である。
その三十一 胡蝶の夢
玄関のドアを荒々しくたたく音で目が覚めた。手探りでスマホを見ると深夜の2時である。出ようかどうしようか迷う。しばらく息をひそめる。
緊急ならまたドアをたたたくだろう。それより、用があるならインターホンを押せばいい。・・・。何か変だ。もしかしたら夢なのか。
音で目が覚めたのは確かだが、それが玄関のドアをたたく音だと思ったのは夢の話だったのか。窓に何か当たった音で目が覚めたのかも知れない。
時々こんなことがある。夢と現実の境目が曖昧になっているのである。
数ヶ月前にも友人たちと話をしている自分の声で目が覚めた。見回すと誰もいない。あいつら何処へ行ったのか、としばらく夢と現実の境目をさまよった。
単に寝起きが悪いだけのような気もするが、夢の時間が現実の時間を侵食しているようでもある。
ろくでもない夢ばかり見るので、夢の中で生きる時間が増えるのはありがたくないが、現実の自分が夢の中でさまようのは、ちょっと面白い体験ではある。
「荘子」に胡蝶の話がある。夢の中で蝶になりヒラヒラと舞っていた荘周がふと目覚めて、荘周が蝶の夢を見たのか、蝶が荘周の夢を見ていたのかわからなくなった。
哲学的な難しい話はわからないが、ある日ふと、夢から目覚める夢を見て、「あっ夢か」と思ったのも夢だったりすると、そう思っている自分が夢ではないという保証もないような気がする。
夢と現実が入れ替わったらえらいことだ。と、ここまで書いて「どっちがどっちでもあまり変わらないか」と苦笑する自分がいた。
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