明治3年(1870)8月末、私の曾祖母・鈴木光子は、会津若松から国替えになった本州最北の地・斗南(現、むつ市)へ、母、妹、祖母、伯母と共に旅立つのである。光子は回想記に次のように綴っている。
出立は八月末頃。越後の新潟から蒸気船に乗っていくのです。新潟迄は四十里の山道、三晩ほど泊まりを重ね無事に着きましたが、私達は、運悪く寺町の寺院を宿所に当てられました。私は、食べ物の不足からひもじさに耐えかねて、日和山(ひよりやま)付近の畑へ参って芋を掘り取って焼いて食べたこともありました。まことに見下げ果てたと思し召しでしょうが、生きるためには致し方がなかったのでございます。
九日目やっと、握飯とお餅が渡され浜辺に着きましたのは午前十時頃でした。そこから二里ほど沖合の本船へ艀(はしけ)に乗って向かうのです。藩士と家族が大よそ千人も乗船しますので二、三十艘の艀では中々間に合いません。私共一行は老人子供ですから、他の者に追い越され、漸く午後四時頃、艀に乗ることが出来ました。日の暮れる頃、本船に着きましたが、艀の内では船酔いし、病人同様になってしまいました。
その時10歳だった光子の会津若松から新潟までの経路を知りたいと思っていた。
新潟市歴史文化課で確かめると、おそらく会津五街道の一つ、越後街道が当時としては最も妥当な道だったはずと教えられた。ただし越後街道は新発田への道であるから、津川辺りでその街道と別れ阿賀野川沿いを往き、馬下辺りでその河とも別れ、五泉、新津、新潟と進んだに違いない。
光子らが九日間滞在していた寺は、やはり市役所での調査により、西堀通(寺町通)の蒲原浄光寺であることが分かった。そこから日和山までは徒歩10分ほどの距離だった。
日和山の頂には海上の守護神である住吉神社が鎮座している。傍らに方角石が据えられていた。安全な航海を見守る日和山は、明治14年以降、土砂の堆積で海から遠くなり、先の方へ築き直され新日和山となっている。そこに設けられた展望台に強風を堪えて上がると、あたり一面白波となった日本海が大きく広がっていた。昼過ぎ天候が急変し、嵐のようになっていたのだ。
浄光寺の両側を美しい生垣とした参道を進み、山門を抜け本堂の前に立った。そこで、曾祖母がお世話になったお礼と食べてしまった芋のお詫びに少しばかりお供えし、手を合わせ頭を下げた。
光子らが逗留した蒲原浄光寺
二里ほど沖合の本船に艀(はしけ)で向かった浜辺とは、どこだったのかを知りたかった。
新潟港は、明治2年(1869)、信濃川河口に開港し外国船の受け入れが始まった。そのため河口付近に運上所(後の税関)と石庫が造られた。現在、それらが復元保存され明治擬洋風建築の姿を留め、緑と水の広場を囲むように配置されている。その広場の一画に新潟市立歴史博物館「みなとぴあ」もあった。そこの学芸員の方と話をすることができた。
浄光寺から運上所まではかなりの距離がある。第一、国内航路なので税関を通る理由もない。浄光寺近く日和山の下の浜辺こそが、光子らが艀に乗った位置だったのではないかと、私は話した。井上文昌作「新潟湊の真景」(みなとぴあ蔵)という絵を見た。そこには、信濃川河口の湊に大型船が入れず、オランダとロシアの船が日和山沖で停泊し、周りに小型船が群れを成している様子が描かれている。新潟港は、大正6年から15年にかけての大規模な工事で、初めて大型船が入港できるようになったのである。
「みなとぴあ」の学芸員の見解は違っていた。大型船は、確かに河口の浅瀬を避け沖合に停泊していたが、艀などは運上所のところから出ていた。港は、外海に直接面することなく、外海から護られるように造られるのが原則だ。当時、多くの人々を宿泊させる施設として、お寺が一番適切で普通であった。従って、寺町に泊まり運上所に出向く人たちは多かったというのである。
さらに彼は、光子らの乗った本船が米国船籍のヤンシー号であることを示す古文書の写しも見せてくれた。
彼の説明に納得した。前日の新日和山から望んだ日本海の大荒れの様子を思い出していた。四十里の道を四日ほど歩いて辿り着いた人たちにとって、浄光寺から運上所までの距離など物の数にも入るまい。
光子は、この運上所に間違いなく来て、前年に建てられた美しい擬洋風建築を見ていたのだ。
復元された新潟港の運上所(税関)
曾祖母・光子の足跡を追った旅の最終日、新潟は晴天だった。信濃川右岸の河口近く、近年、朱鷺メッセが建てられた(槇文彦設計)。その高層棟31階の展望室に上がると、西に佐渡を見せて真っ青な日本海が、一昨日と打って変わって穏やかに横たわっている。遠くに新日和山の展望台が視界に捉えられ、眼下の左岸には旧運上所と「みなとぴあ」がはっきりと見えている。
佐渡汽船の桟橋から大型のフェリーが出航していった。明治開港の時、大型船が河口の浅瀬を逃れて停泊していた辺りに、それは近づいていった。一瞬、そのフェリーが停まったように見え、光子が艀から船酔いでふらふらになって乗り込もうとしていた蒸気船ヤンシー号に重なった。145年前、そこからヤンシー号は真っすぐ北へ航路を取っていた。
しかし、停まったと見えたフェリーは、西へ大きく舵を切った。
信濃川河口、佐渡汽船フェリーの桟橋
(平成27年7月、鈴木 晋)
(次回は、曾祖母・光子が移住した斗南での生活についてです)
2024年春季号 vol.5
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