その三十五 郷土料理「しもつかれ」
節分の頃になると思い出すのが故郷、栃木の郷土料理「しもつかれ」である。
栃木の郷土料理といえば「しもつかれ」と決まっている。初午の日に食べる習わしになっているが、私の実家では節分にも作っていた。
大根や人参を鬼おろしでおろし、酒粕、大豆、油揚げなどを加える。忘れてならないのが鮭の頭である。これを醤油などの味付けで鮭の頭がぐずぐずになるまで煮込む。
この「しもつかれ」県外の人はほとんど知らない。地味な料理で見た目も悪く、まるでインスタ映えしないのだ。 試しに「しもつかれ」をお玉にひとすくい道端に置いてみよう。昨夜のヨッパライの落とし物と思って、みんな遠回りに避けて歩くことだろう。
昔から子供たちには全く人気がなかった。他におかずがないので仕方なく食べたという子供が多かったと思う。
ところが不思議なことに、大人になると故郷の味として、たまに食べたくなるのである。
「しもつかれ」はとらえどころのない茫洋とした味である。節分の記憶とともに、冷めた赤飯や焼いたイワシとセットになっている。出来たてよりも時間が経って冷たくなったのがうまいのである。大人になって酒のツマミとしても優れ物であることを知った。
数年前の節分の頃、栃木県内のスーパーを覗いた。鮭の頭が鮮魚売り場の店頭に山のように並んでいた。伝統は脈々と受け継がれていた。
その三十六 消えたシロバナタンポポ
栃木市の郊外に太平山(おおひらさん)という山がある。標高400メートル余りの低い山だが、いくつかのピークを持ち、太平連山を形成している。10年くらい前、山野草を観察しようと太平山に毎週のように通っていた。
太平山には、街中ではなかなか見られない、在来種のカントウタンポポが見られる。セイヨウタンポポしか知らなかった私には新鮮であった。もっとも、見た目にはセイヨウタンポポもカントウタンポポもあまり違いはない。花を裏返して外側の総包片にこぶがあり、反り返っていないのがカントウタンポポで、較べてみるとすぐ分かる。
ものの本によれば、セイヨウタンポポの花はハチやチョウなどが花粉をつけなくてもタネを作り、どこにでも飛んでいって育つことができる。一方、在来種のカントウタンポポは自分の花粉を自分のメシベにつけても受粉しない性質がある。そのため、周りに育つ株からハチやチョウにより受粉しないとタネができない。在来種のカントウタンポポは仲間といっしょに群れていないと生きられないという。
都会はカントウタンポポには生きにくい環境なのである。
ある日、太平山のふもとの舗装道路のカド地に白いタンポポが咲いているのを見つけた。関東では珍しい在来種のシロバナタンポポであった。カントウタンポポに混じって、そこだけにシロバナタンポポが1株生えている。毎週のように歩き回っても他の場所でシロバナタンポポをみつけることはできなかった。
翌年も、翌々年もシロバナタンポポは、そこに1株だけ咲いていた。しっかり根を張って毎年顔を出しているのだろう。春先、太平山を歩く時はシロバナタンポポとの再会を楽しみにするようになっていた。
その頃、白いタンポポは珍しいとおもっていたが、九州や四国の一部ではタンポポは白いのが当たり前という地域があるらしい。関西でも白いタンポポはそれほど珍しくないと聞いた。
それにしても、どうして関東のこの地で、シロバナタンポポがひと株だけ生きているのか。不思議であった。
ある年の春先のことである。シロバナタンポポが咲いていたその一角が宅地開発されるらしく、草が刈り込まれ、除草剤を撒いたので注意するようにという看板が置かれていた。数日前に刈られたらしく、いつもの場所にはシロバナタンポポの花びらが数片落ちていた。それ以降、何度か太平山に行く機会があったが、シロバナタンポポに出会うことはなかった。
もう何年もシロバナタンポポを見ていないが、シロバナタンポポは地中に深く根を張り、在来のカントウタンポポよりも逞しいらしい。
もしかしたら、今年の春にはしぶとく花を咲かせているかもしれない。
その三十七 桜の思い出
ラジオでは桜の開花予想を告げていた。今年の桜の開花は早いらしい。桜の季節になると思い出すことがある。
実家の裏に蚕糸会館という養蚕試験場があり、その庭に大きな桜の木があった。子供の頃のことなので大きく見えたのかもしれないが、子供が4~5人で手をつないで、ようやく囲めるほどの太さがあったように思う。枝も広く張り出していた。
その桜の木のとなりに試験場の社宅が一軒あり、同い年の女の子がいた。
幼稚園の頃、毎日のように遊んでいた。満開の桜の下で地面も見えないほど散り敷いた花びらを、一枚一枚木綿糸をつけた縫い針で刺して拾い集め、桜の首かざりを作って遊んだ。そんなことが記憶に残っている。
たぶん、針と糸を用意してくれたのは、女の子のお母さんだったのだろう。
ある日、家の中から、私達を呼ぶ女の子のお母さんの声が聞えた。
家の中に駆け込むと、ガラスの砂糖つぼにアリがむらがっている。アリは縁側の木製サッシの隙間から列を作っていた。お母さんは少しも騒がず、どこまで続いてるか見に行こうと、3人で庭に出てアリの行列を追跡した。狭い庭の垣根の向こうまでアリの行列は続いていた。そこから先の記憶は途切れている。
小学校に入る前に、女の子はどこかに引っ越していった。毎日のように遊んでいたのに、女の子の顔も、名前も覚えていない。もちろん、お母さんの顔も覚えていないが、女の子のそばにはいつもお母さんの気配があった。
4人兄弟の末っ子で殺伐とした幼年時代を送っていた私にとって、女の子のお母さんはやさしいお姉さんのような存在だったのかもしれない。あまりに淡く切ない思い出である。
(大川 和良)
2024年春季号 vol.5
今年は3月後半が寒かったせいか、例年より桜の開花が遅くなっておりましたが、全国…
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