韮山反射炉は幕末期の代官江川英龍(坦庵)が手がけ、後を継いだその子英敏が完成させました。
反射炉とは、金属を溶かし大砲などを鋳造するための溶解炉。韮山反射炉は、実際に稼働した反射炉として国内で唯一現存するものです。
反射炉内部反射炉とは、銑鉄(せんてつ・砂鉄や鉄鉱石から作った粗製の鉄で、不純物を多く含む)を溶かして優良な鉄を生産するための炉です。銑鉄を溶かすためには千数百度の高温が必要となりますが、反射炉内部の溶解室の天井部分が浅いドーム形となっており、そこに炎や熱を「反射」させ、銑鉄に集中させることで高温を実現する構造となっています。このように、反射させる仕組みから反射炉と呼ばれました。
溶かした鉄は、鋳型に流し込んで大砲などに加工されました。過去にされた発掘調査では、砲弾の鋳型などが発見されています。炉体と煙突の部分を合わせた高さは約15.7m、実際に稼働した反射炉が残っているのは日本でここだけです。稼働当時、反射炉の周囲には各種の作業小屋や倉庫などが建ちならび、多くの職人が働いていました。
嘉永6年(1853)のペリー来航により、日本は外国の脅威にさらされました。江戸湾海防の実務責任者となった江川英龍(坦庵)に対して、幕府は江戸内湾への台場築造と並行して、反射炉の建造を命じます。ペリー来航以前から反射炉の研究を続けていた英龍でしたが、蘭書の記述のみを頼りに反射炉を建造するのは、非常に困難な事業でした。建設予定地は下田港に近い賀茂郡本郷村(現下田市高馬)とされ、その年の12月には基礎工事が始められました。しかし、翌安政元年(1854)3月末、下田に入港していたペリー艦隊の水兵が反射炉建設地内に進入するという事件が起こりました。そこで、急きょ、反射炉建設地を韮山代官所に近い田方郡中村(現伊豆の国市中)に移転することになったのです。反射炉は、ヒュゲニン(huguenin)著『ライク王立鉄大砲鋳造所における鋳造法』という蘭書に基づいた、連双式(溶解炉を二つ備える)のものを2基、直角に配置した形となっていました。四つの溶解炉を同時に稼動させ、大型砲を鋳造するための工夫です。
しかし安政2年(1855)正月、江川英龍(坦庵)は韮山反射炉の竣工を見ることなく病死してしまいます。跡を継いだ息子の英敏は、蘭学の導入に積極的で、反射炉の建造も行っていた佐賀藩に応援を求め、技師の派遣を要請しました。佐賀藩士の助力を得て、安政4年(1857)11月、韮山反射炉は着工から3年半の歳月をかけて、ようやく完成したのでした。
韮山反射炉では、元治元年(1864)に幕府直営反射炉としての役割を終えるまでに、鉄製18ポンドカノン砲や青銅製野戦砲などの西洋式大砲が鋳造されました。
韮山反射炉は2015年7月に明治日本の産業革命遺産として世界遺産に登録されました。
(伊豆の国市ホームページより参照)
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