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ザ・戊辰研マガジン

2020年04月号 vol.30

【幕末維新折々の記・四】「御花畑」(近衛家別邸)

2020年04月07日 10:54 by tange
2020年04月07日 10:54 by tange

 慶応2年(1866)1月21日、坂本龍馬の斡旋で、京都において薩摩と長州の同盟が密約される。薩長同盟である。この幕末維新の歴史を大きく動かす同盟は、長州藩の木戸孝允と薩摩藩の西郷隆盛らにより、薩摩藩家老・小松帯刀の邸宅で締結されたと言われてきた。その屋敷は「御花畑」(近衛家別邸)で、この時、近衛家と親戚関係にあった島津家が借用していた。しかし現在、それは少しの痕跡も残していない。
 平成28年(2016)9月27日付けの京都新聞は、歴史研究家・原田良子氏がその邸宅の位置と範囲を特定したと報じた。「御花畑」は、以前別の場所とされていたが、原田氏により訂正され正しい位置が特定されたのだ。原田氏は、京都府立総合資料館所蔵の京都府行政文書、鹿児島県資料センター黎明館蔵「御花畑絵図」、西郷隆盛文書(『大西郷全集第二巻』平凡社)などを調査分析し、この結論に至った。
 その記事によると、敷地は現在の森之木町、上御霊中町、小山町の三町にまたがり、広さは約1800坪と広大であった。敷地の西が室町通に、北が鞍馬口通に接していた。さらに、正門は室町通に面していたと特定される。同時に掲載された原田氏らが作成した屋敷全体の模式図には、正門をくぐった直ぐに広い御花畑が表現されている。
 地下鉄烏丸線の鞍馬口駅を降りて西へ少し行くと、飲食店舗の敷地角に白花崗岩の小さな碑が立っている。上記の京都新聞報道の翌年、29年3月に立てられた真新しい石碑である。
 正面に「近衛家別邸御花畑御屋敷跡」、左右に「小松帯刀寓居跡」、「薩長同盟所縁之地」と刻まれている。

 私の高祖父・鈴木丹下は、文久3年(1863)8月18日早朝、御所九門内の警備の任に就くため会津藩鞍馬口屋敷から出陣した。会津藩と薩摩藩が主導して京都から七卿と長州藩を追放したクーデターで、「八月十八日の政変」と呼ばれ、「七卿落ち」とともに幕末史に記されている。
 私はこの会津藩鞍馬口屋敷を探していた。菊池明編「京都守護職日誌」文久三年二月九日の項に、『会津藩陣将隊、相国寺裏の彦根藩邸を借り受け、移転する(上京道中泊附)』という記述を見つけた。会津藩鞍馬口屋敷とは、この彦根藩邸のことだった。そのやはり広大な敷地は、京都古地図によると、鞍馬口通と北で接し、西は上御霊神社に面している。 
 一方、上御霊中町まで広がっていた「御花畑」(近衛家別邸)は、その東で上御霊神社と接していたと考えられる。つまり二つの屋敷は、上御霊神社を挟んで隣り合っていたのだ。
 それぞれ広大な屋敷は、間に上御霊神社を置き、かなり離れていたことも事実である。しかし薩摩藩は、京都全体で考えれば、何と近くで会津藩を裏切る同盟を結んでいたことか!

 薩摩藩は、「八月十八日の政変」の時、会津藩と薩会同盟を結んでいる。
 長州藩が一部の公卿たちに取り入り朝廷内で勢力を浸透させていることを危惧し、彼ら一派を朝廷から追放しようと考えた薩摩藩だったが、政変の前月に鹿児島での薩英戦争に敗れ、京都における兵力は著しく劣っていた。そこで同藩は、京都守護職として駐留していた会津藩の強大な兵力を利用しようと計り、薩会同盟を締結したのだ。
 この同盟は翌年7月に勃発の「禁門の変(蛤御門の変)」でも功を奏し、両藩は御所へ攻め入ろうとした長州軍を協同して撃退した。しかし、「禁門の変」の翌々年に薩長同盟が密約され、討幕維新という革命が急転し成就に向かうのである。
 会津藩では、その拠点の一つで多数の兵も駐屯していた鞍馬口において自藩を裏切る同盟が結ばれていたことに、誰ひとりとして気付いていなかった。会津藩の諜報力の低さに唖然とし、近くの薩摩屋敷(現、同志社大学今出川キャンパス)に居て、それぞれの屋敷位置を承知していた西郷の大胆不敵さに驚くのである。
(鈴木 晋)


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