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ザ・戊辰研マガジン

2020年04月号 vol.30

南部と津軽の歴史的な確執

2020年04月06日 21:16 by norippe
2020年04月06日 21:16 by norippe

 近所付き合いは難しく、意外にお隣同士の仲が悪いという話はよく聞く。田舎に行けば行くほど過疎化が進み、隣同士が助け合って生活をする必要があり、仲良く過ごすことが大事になってくる。しかし、人口が多い地域は生活をする上でそんなに不便を感じる事もなく、必要な物はすぐに手に入るので、昔のように「醤油を切らしたのでちょっとお隣に借りに…」なんて事がまず無くなった。無理してお隣と付き合う必要はまったく薄れてしまったのである。
 集合住宅などはお隣がどんな人が住んでいるのかさえ知らない事もある。ゴミや騒音などで時々争う場面を見かけるが、何か事が起きた時には、お隣同士、本当に仲がいいとは言えないのである。
 それは、国同士においても言える事で、日本の隣国である韓国や中国やロシアなど、領土問題やその他において利害が直接係わってくるから常に争いは絶えない。
 日本において過去の歴史の中でも、お隣同士で争った地域が数多くある。その中のひとつ、津軽と南部の歴史的な確執をここで見てみよう。

 青森の平内町と野辺地町の境界を少し浜に下りたところに、旧津軽藩領と旧南部藩領を分ける藩境が残されている。別名「四ツ森」と呼ばれるこの「藩境塚」であるが、古墳のような土マンジュウが陸奥湾にそそぐ小流二本又川をはさんで2つずつ並んでいて、陸奥湾に向かい小川の左側が旧津軽藩領、右側が旧南部藩領である。



藩境塚 川を挟み左が津軽領、右が南部領

 津軽に領土を奪われたという歴史を持つ南部藩は、その境界に土マンジュウを作り領土の保持を行った。それに対し津軽側も同じように塚を作りこれに対抗したのである。南部藩側の木柱には「従是東南盛岡領」、津軽藩側の木柱には「従是西北津軽本次郎領分」と書いてある。

 戦国時代、津軽藩には先見性があった。藩祖・津軽為信は天下の成り行きをよく見極めていて、南部氏から独立を果たすと、石田三成を通じて豊臣秀吉に臣従しお家と領土を守った。関ヶ原の合戦でも先を見通して徳川に味方をした。ただし石田三成の子をこの地でかくまうなど、為信はやさしく義理堅い男でもあった。
 戊辰戦争でも先見性を発揮し、奥州諸藩がこぞって徳川に味方する中、列藩同盟を脱退し新政府軍として戦った。
 南部の人は津軽を裏切り者という。しかしそれは違うと津軽の人は言う。津軽は中央から遠く離れていたが、情報を集め常に時代を読んで行動をしたから今日の弘前があり、今日の繁栄があると言う。

 津軽為信は南部信直にとって父の仇。津軽(大浦)為信は、もともと南部氏の被官であったが、元亀2年(1571年)、石川高信を討ち取り、南部からの独立をめざした。石川高信は南部信直の父親で、為信は信直にとって親の仇ということになる。この頃の南部は当主の晴政と信直の対立もあって、為信に兵を差し向けることができなかった。その後、南部の家督を継いだ信直は為信討伐を目論むも、九戸政実らが動かず断念。この間に為信は浪岡御所を落とし、外ケ浜を領有し、津軽一帯を勢力下に置いてしまうのである。そして為信は天正18年の豊臣秀吉の小田原征伐に参陣し、独立した大名としての地位を認められる。南部信直は前田利家を通じて秀吉に接近し、糠部郡をはじめとする所領を安堵する朱印状を得ていたが、津軽地方を為信に横領されたという訴えは認められず、南部と津軽は豊臣政権下で対等の独立大名として扱われることになる。この裁定は信直にとっては不甲斐ないものであった。津軽と南部の確執はここからはじまったと言えるのだ。

 その後の関ヶ原の合戦では、津軽も南部も東軍に味方し、徳川幕藩体制に組み込まれていくのだが、犬猿の仲の両藩の遺恨は続いていく。その中でも有名な相馬大作事件があった。
 正徳4年(1714)、両藩の間で檜山騒動と呼ばれる藩境をめぐる紛争が起きた。この紛争は幕府の裁定により弘前藩の勝訴となったが、盛岡藩には不満をつのらせる結果となった。さらにこの頃、弘前藩主・津軽寧親は、ロシアの南下に備えて北方警備の命につくことなり、従四位下に叙任される。いっぽう盛岡藩主の南部利用はまだ若年ということもあり無位無官のまま。おまけにこの時期には、たまたま幕府が藩石高の再計算を実施したところ、弘前藩は表高10万石となり、盛岡藩の8万石を上回ってしまう。従来、津軽藩を格下とみなしてきた南部の人々は、そのプライドを大いに傷つけられてしまったのだ。
 そうした中でおきたのが相馬大作事件であった。盛岡藩士の下斗米秀之進は弘前藩主の津軽寧親に辞官隠居を勧め、聞き入れられないときには「悔辱の怨を報じ申すべく候」と暗殺予告を送りつける。弘前藩はこれを無視したが、秀之進が江戸から帰国途中の寧親を秋田藩白沢駅付近で待ち伏せし、暗殺することを計画した。この事件は密告により未遂に終わるが、秀之進は出奔して「相馬大作」と変名し江戸に潜伏する。その後、秀ノ進は捕らえられて死刑となるが、この事件の後、津軽寧親は隠居することとなり、秀之進の目的は達せられ、人々は秀之進を「南部の大石内蔵助」と大いに持ち上げたという。両藩の怨恨がいかに深いものであったかが思い知れる事件であった。

 そしてまたも津軽が裏切った戊辰戦争がある。
 幕末の戊辰戦争時、南部も津軽も当初は奥羽越列藩同盟に加盟し、会津、庄内両藩の救済に動いていた。しかし、津軽は当初から列藩同盟には懐疑的であったようで、近衛家との関わりの深さを理由に、のらりくらりと領外への出兵を拒否。やがて密かに同盟を離脱し、新政府軍に恭順したのだ。
 一方の南部は家老の楢山佐渡が薩長を嫌っていたこともあり、いち早く同盟を離脱した秋田藩を攻めていた。だが盟主であった米沢仙台が降伏し、会津若松も落城したことから、やむなく新政府軍に恭順。ところが、南部が降伏した翌日、とつぜん津軽は南部領の野辺地に侵攻したのだ。野辺地戦争である。これは新政府軍に対する津軽のパフォーマンスにすぎず、戦いそのものは一日で終わったが、死人も出て村を放火された南部側の怒りは大きかった。


野辺地戦争戦死者の墓所

 戦後、盛岡藩は大幅に石高を減らされた。また下北半島には会津藩士が入植し、斗南藩が置かれた。そして廃藩置県により、現在の青森県域には、旧藩を引き継ぐかたちで弘前県、黒石県、斗南県、七戸県、八戸県が成立。その後は、北海道渡島半島にあった館県を含めた6県が合併して弘前県が誕生した。これは困窮していた斗南県を経済状態が比較的よい旧津軽藩領に引き込むことが目的で、ついでに八戸、七戸も一緒にされたのだ。もっとも、旧弘前藩士が中央から送られてきた役人に非協力的だったため、まもなく県庁は青森市に移された。新政府にしてみれば、経済的な発展性が何よりも優先で、古臭い津軽と南部の確執などには、構ってはいられない。
 こうした長い歴史もあって津軽と南部は地理的、文化的、言語的、気分的にも同じ県内とは思えないほどで、その確執、ライバル心は今でもなお続いているのだ。

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