会津若松市の白木屋漆器店の元会津若松市長の娘さんが「攬勝亭を守る会」を発足しました。わが戊辰戦争研究会の会員の長尾修先生も会員です。また、「新島八重顕彰会」の岩澤信千代氏も幹事だそうです。HPとFacebookで「攬勝亭」の保存に向けて様々な活動に対して心から応援させていただきたいと思います。
「攬勝亭を守る会」のHP
http://www17.plala.or.jp/ransyoutei/?fbclid=IwAR2KF6jFYi9Un5TiirOHem9uhLKzMHcsrCXfdFztfQjsxNKz7TEd36OZBXQ
「攬勝亭を守る会」のHPからの引用します。 攬勝亭の敷地は、地形などから中世土豪館跡と考えられています。 白髭洪水(1536年)の後一面柳原となっていた一帯を、1543年に蘆名氏が三条長尾氏(上杉家一族)に与え、それ以来幕末まで長尾氏が居住しました。 攬勝亭には中世以来の庭があり、会津藩祖保科正之公が来訪した際に「攬勝亭」と命名されました。元禄時代に第3代会津藩主正容公が家臣丹羽勘右衛門宗能に監督・管理にあたらせ、修景(庭の改築)がされました。以後、事実上藩営の庭となりました。歴代の藩主の鷹狩りなどの往復の休息所に使われたと言います。容保公などの歌碑などが存在します。戊辰戦争時には朱雀隊、青龍隊などの陣屋となり、薩摩十八番隊に焼き討ちにされました。 明治22年頃までは長尾氏が所有していましたが、その後、所有者が転々としました 大正15年に森氏が購入、和風の住宅や茶室を建てるなど整備されました。 昭和19年から戦後に掛けて、マルニ工芸漆器製作所の関係者が所有しましたが、ドッジラインの影響などで倒産しました。 昭和31年に前所有者のS家が購入、再度手入れがされました。 令和元年12月9日に会津若松市が開発許可を出しました。 令和元年12月16日に積水ハウス不動産東北が購入しました。
[攬勝亭の文化財および歴史的価値について]
お庭としての価値 まだ、専門家による厳密な調査は行われていません。しかし、市街地の中で貴重な緑地です。 広さは約千坪あり、御薬園に次ぐ規模と歴史を持つ庭園で、園内には風格在る古木が残っています。 時代ごとに手は加えられていますが、中世に起源を持ち、元禄時代に今の元型が作られたと考えられています。 碑の価値 攬勝亭の来歴と白鬚大洪水の災害を記した碑文「菅神併庭記」があります。 旧門前の「新語堪聴碑」(仮称)は、「攬勝」の文字を読み込んでおり、字も格調の高い優品です。 その他、傷みがひどくなっているようですが、過去の記録から容保公の歌碑、享保時代の句碑などがあると思われます。 考古学的価値 戦国時代に蘆名氏の客分となった長尾氏の館がこの場所に存在した可能性が極めて高く、庭を破壊すれば中世の遺跡も壊れます。 歴史的価値 三代正容公が松平姓を賜った頃に作られており、藩の慶事と作庭の関連を暗示する文言が十景詩中にあります。
渡辺東郊の画賛に「元会津公別園」とあり、戊辰後でも民間の庭ではないとの認識があったことが判ります。 戊辰戦争時に、朱雀、青龍隊の陣屋となり、そのため薩摩十八番隊の焼き討ちされた戦跡です。 文化史的価値 元禄時代の庭改築時に、正容公が「攬勝亭十景」の題を出し、文人に作らせた漢詩が伝えられています。 仏教思想や和歌を背景としたものから、朱子学に即した作庭への時代思潮の節目に当たる好例で、「新語堪聴碑」とも呼応しています。 昭和11年に与謝野晶子が攬勝亭に宿泊し、歌会を開いています。 そのほか、著名な画家が訪れたといわれており、今後、攬勝亭に因んだ作品が発見される可能性があります。
「欄勝亭」の碑は、何かが不明です。 何故、魯公伯禽の話が出て来なければならないのか?それは、彼が周公旦の息子だからです。周公旦のことはご存じの方が多いと思いますが、旦は殷に使えていた初代の文王の四男として生まれました。彼は兄の武王を補佐し殷を打倒します。周が成立すると魯公に任ぜられますが天下が安定しないので自分は周の都に止まり領地には向かいませんでした。その後まもなく武王が亡くなり、幼い成王を摂政として補佐し、成王が成人すると自らは退いて臣下の分を守ります。
この話、誰かにそっくりではありませんか?!! そうです!登場人物の名前を入れ替えたらそのまま会津藩初代藩主の保科正之公の生涯です。つまり、この碑文を書いた人は、自分は保科正之の息子(あるいは子孫)である、と暗に言っているわけです。もし、それが攬勝亭を修景(庭の改築)させた正容公だとすると、彼はその時30代前半ぐらいだったでしょう。 「庭園は名勝旧跡を手本とすべきであるように、保科正之の息子である私は歴史の教訓を鑑として盡忠報国の名君にならなければならない」という、いかにも青年らしい気負いを感じて胸熱です。
[新島八重顕彰会から引用]
額装した渡辺東郊画にある「攬勝亭」の石碑を樋口先生に意訳して頂きました。「攬勝亭」の名前の由来が入っていると思われます。「攬」と「勝」の文字が入っています。渡辺東郊が描いた石碑が風雪に耐え今もしっかりと残っています。
また、会津若松市議会の目黒市議会議員も二月の定例議会におきまして「攬勝亭保存について」熱く熱く訴えて頂きました。
【目黒議員のYoutube映像】
https://www.youtube.com/watch?v=otyiY4DvBs8&list=PLUD_dJJDijrSPTXUYLYhCFx9V3SgkjTtZ&index=42&t=0s&fbclid=IwAR0YzQ3ZP8Ep8HLtIMFXUx5wPDJ-J9sNSTvH_2fCltNmkeJnptJl176qYho
2020年4月21日の福島民報新聞に掲載された記事では、「攬勝亭」が会津藩と密接な関係のある庭であったことを、渡辺東郊が戊辰後に描いた画と、江戸後期の儒学者安積艮斎(ごんさい)が記した「攬勝亭記」から裏付けるとのことです。安積国造神社の宮司様からは、「艮斎文略続 巻一」所収の「攬勝亭記」部分の画像をご提供いただいております。
【福島民報新聞2020年4月21日】
【福島民報新聞2020年4月24日】
4/24には「攬勝亭を守る会」の星野名誉会長、高瀬会長他八名が会津若松市の室井市長と面談し、要望書を手渡しました。要望書は、今朝までに事務処理が間に合った460名分です。 コピーしたものを市議会宛にも提出いたしました。 要望書は、次々と届いておりますので、これからもどんどん提出して頂く予定だそうです。
【要望書を提出した記事(4/24福島民報新聞・福島民友新聞)】
4/24の要望書の提出が記事が、福島民報新聞と福島民友新聞に掲載されました。会津史談会、会津史学会、会津民俗研究会、会津文化団体連絡協議会、それぞれの代表の方や関係者の方にご同行戴けたのは何より心強かったそうです。
【4/25の福島民報新聞記事】
攬勝亭の昭和初期、森家時代の写真が見つかりました。 御子孫の方々が懸命に探していくださったお蔭です。5/2の福島民報新聞が取り上げています。
5月5日の福島民友新聞に「安積艮斎が攬勝亭たたえる記述残す安積国造神社宮司が発見」 攬勝亭に関する貴重な記録であるとして、家老丹羽能教が晩年を同庭園で過ごしたことや、艮斎の師、林述齋が攬勝亭と命名したとする記述がある事などを丁寧に紹介されております。
「攬勝亭を守る会」と我ら「戊辰戦争研究会」は連携して、会津の宝である『攬勝亭』の保存して頂けますよう皆さんと一致団結して頑張りましょう。
【記者 鹿目 哲生】
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