2020 01 19 【鬼の副長 土方歳三】
1では、サクッと高幡不動尊にふれました。
ここでは、まず、松本良順の件についてふれます。
高幡不動尊の土方歳三像の隣に、「殉節両雄之碑」があります。(劣化していて読めない部分があり)
殉節両雄とは 幕末の京都において勤皇の志士から恐れられた新選組の局長近藤勇と副長土方歳三のこと。明治7年(1874)8月、明治政府は、「朝敵」となった戦死者の霊を祭ることが出来る布告を出した。これに基づき、旧幕府の典医松本良順の呼びかけで、高幡山金剛寺で近藤、土方の墓碑建立の計画が生れ、佐藤彦五郎や小島為政らも計画に賛同し旧門人や有志から募金を集めた。
碑文は二人の誕生から死に至るまでの略歴と功績を記して顕彰するもののようです。内容が単なる慰霊碑ではなく、両氏の賊名を晴らし、忠勇義烈を讃える顕彰碑。 篆額は旧会津藩主松平容保、碑文は小野路村、小島為政が起草した「両雄士伝」を基に大槻 磐渓が撰文し、碑文の約1600文字は松本良順が書いているという。 碑が完成した後も建設の許可が得られず、明治21年に建立された。
また、この篆額(てんがく)は、最初、慶喜に依頼したようですが… 「唯死あるのみ。即ち寛典に処すとも吾何の面目あって、また昌宜と地下にまみえんや!」という土方歳三の文言を読み、徳川慶喜が涙を流したと伝えられています。回答を得られず容保が書いたとか。
※武州と甲州の境の源から江戸の生活に役立たせる多摩川は清く美味しい。 「近藤昌宣(まさよし)」と「土方義豊(よしとよ)」はその多摩川の両岸の生れである。二人は剣法を近藤邦武に学ぶ。から始まり、新選組とあわせ散っていった二人の軌跡が語られる。 京での新選組として治安維持に活躍。 禁門の変で長州兵が攻め上がるのを幕府側として守り撃退するなど功績が評価される。
戊辰戦争が始まると東軍として戦うが、東軍敗走の中、京から、江戸、東北、最後は函館で終戦を迎える。この間、「昌宣」は流山で官軍に捕まり、慶応元年4月15日に板橋で処刑され、その首は京都に晒され、慶応2年5月11日、箱館で「義豊」は銃丸が下腹をつらぬいて戦死。などの内容が書かれているようだ。
サクッと書いてみましたが、文献引用しまくりました。まだまだ内容がありますが原文見てないので次回の日野で再up。(四月以降の刀身もあるので) 場所を移動して【土方歳三資料館】へ
まず、土方歳三の生家は、石田寺の北に稲荷森(とうかんもり)の東後方にあったようです。(場所分からず行ってませんのでまたの機会に…) 歳三12歳のときに、多摩川の出水により1部が流されたため現在の場所に移築され、当時のままの長屋門は、資料館右にあります。(知らずのためまたの機会に…笑)
また、資料館は、庭のみ撮影可です。 入り口付近には、武士になる決意を込めて植えた矢竹、胸像(研究会資料より引用)があります。
資料館入り口には、大黒柱や長者柱を活用しているようです。 さて、資料館内は、生家の模型や愛刀の和泉守兼定(市指定有形文化財)、直筆書簡、京に上る直前に編んだ句集の豊玉発句集、池田屋事件で使用した鎖帷子、八月十八日の政変時に使用した鉢金、歳三の人となりを詠んだ榎本武揚書額、土方家家伝薬である石田散薬に関する史料、土方家伝来十文字槍(銘:助宗)、稽古に用いた天然理心流木刀、京時代使用の鎖帷子などの展示があります。
やはり中でも人気な【愛刀 和泉守兼定拵え】です。四月からは、刀身が見れるようです。(刀に詳しくありませんが……)
刀について元治元(1864)年、池田屋事件の戦果を郷里に伝えるため、近藤勇が日野の佐藤彦五郎に宛てた手紙が残されています。その中に記載された「和泉守兼定」の刀身は2尺8寸。会津藩主・松平容保から下賜されたと伝えられる、土方歳三の愛刀として最も有名な刀で、作刀は、会津藩のお抱え刀工だった会津11代和泉守兼定によるものとされています。 箱館戦争の際、小姓・市村鉄之助によって遺髪や写真、手紙などと一緒に彦五郎のもとに送られてきた歳三最期の佩刀(はいとう)として伝えられています。
※刀について詳しく知らなかったが…。鞘は、会津塗りということ、会津藩お抱え刀工だったんだなぁ~。福島、会津の誇りですね。
※刀身は、今年の四月から特別公開されます。ホムペに開館日など記載されています。
続く
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