さて、「長助・勇吉本文違隔一条」について調べてみたことを書いておきましょう。
長助・勇吉というのは、平成18年7月、重要伝統的建造物群保存地区として多く残る町家の中で最も古く、町並みの中央付近に「山邊家」の本家、分家として向かい合って建っています。
山邊家本家
山邊家分家
宝暦7年(1756)の吉野郡宇陀郡国栖紙仲買組合に加入している40人の中に9人が松山商人でその中でも山邊屋長助は代表的な仲買商人で入用銀の私札を発行していたほどの家で山邊家には今でもたくさんの宇陀紙に関する古文書が保管され当時を知る貴重な資料となっているそうです。そんな大宇陀上の山邊家は松山地区でも最も古い町家の一つと書かれています。地域のボランティアガイドさんも長助、勇吉の本分違隔とは何だったのかは分からないと仰っていましたが、もしかして、古文書の中に新選組の出張や揉め事の中身が隠されているのかも知れませんね。古文書が公開されることがあれば是非拝観したいものです。
最後に伊東甲子太郎・山崎烝が宿泊したという「旧細川治助邸」を紹介しましょう。
「旧細川治助邸」 現宇陀市歴史文化館「薬の館」として宇陀市が管理されボランティアガイドさんが常駐されています。
銅板葺唐破風附看板
青垣めぐる大和盆地の東方に位置する大宇陀は古代には阿騎野(あきの)と呼ばれ、宮廷の薬猟の地とされた所で「日本書紀」には推古19年(611)5月5日に薬猟が行われたことが記録されています。 江戸時代中期、享保14年(1729)8代将軍徳川吉宗の時代に森野賽郭翁により薬園が開かれ、250年以上の時を経た現在も「史跡森野旧薬園」として継承されています。
「細川家」もまた薬問屋であったそうです。文化3年(1806)には薬商となり天保7年(1835)、人参五臓圓・天寿丸という腹薬を販売。正面の「銅板葺唐破風附看板」は往時の繁栄を今に伝えています。また、アステラス製薬(旧藤沢薬品)の創始者の母がこの家の出身です。
細川邸の内部ですが、この床の間付きの部屋に伊東甲子太郎・山崎烝が泊ったのではないでしょうか。
宇陀松山地区には今も二十数軒にも及ぶ商家や宇陀松山城跡、織田家墓所、それに天誅組鉄砲方として参加し東吉野村では那須信吾など決死隊の一員として壮絶な戦死を遂げた林豹吉郎の生家跡顕彰碑等々歴史フアンには見所一満載の地です。お勧めしたい歴史スポット「大宇陀松山」に是非お立ち寄り下さい。
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