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ザ・戊辰研マガジン

2020年05月号 vol.31

日本で最も美しい村~飯舘村~

2020年05月06日 12:20 by tetsuo-kanome
2020年05月06日 12:20 by tetsuo-kanome

【山津見神社(飯舘村)】

【山津見神社の狼天井絵】

 皆様は、福島県の飯舘村をご存知ですか。飯舘村は福島市から南相馬市へ向かう中間地点に位置しており、阿武隈山系北部の高原に開けた豊かな自然に恵まれた美しい村です。人口は約6,000人で村の総面積230.13k㎡の約75%を山林が占めた地形は、比較的なだらかで、北に真野川、中央に新田川と飯樋川、南部に比曽川が流れ、その流域に耕地が開かれて集落を形成している典型的な中山間地の景観を見ることができます。年平均気温は約10度、年間降水量1,300mm前後で高原地帯独特の冷涼な気候にあり、夏の期間はヤマセの影響で度々冷害に見舞われます。そのため、手間暇惜しまず、丁寧に、心を込めて、相手を思いやるという“までい”な生活文化が今も残っている村です。産業では、冷害に強い農業である畜産に力を入れ、黒毛和牛の「飯舘牛」はブランド牛として高い評価を得ています。また、高冷地の条件を生かした高原野菜、トルコギキョウを始めとする花卉、凍み餅、凍み大根、どぶろくなどが特産となっています。飯舘村は、「日本で最も美しい村」として認定されておりました。

 これまで、飯舘村の村民一人一人の創意と工夫で、“までい”に力を合わせて村を作り上げてきました。東日本大震災の直後、飯舘村は南相馬市など浜通りから数千人の避難者を受け入れました。福島第一原子力発電所事故後も30キロメートルは離れている村は当初、「避難の必要はない」と言われていたが、その後、政府から「計画的避難区域」に指定され、全村民が避難しなければならなくなりました。

 私には生涯忘れらない一日があります。2011年5月7日。初めて飯舘村に行きました。飯舘村役場に到着すると役場の職員の皆様は野戦病院のようにバタバタとされておりました。私は、まずは、菅野村長と門馬副村長に挨拶に行きました。初めてお会いするお二人から「飯舘村のためにお力を貸してください」と丁寧にご挨拶を頂きました。このシーンを今でも思い出すと涙がこぼれます。加害者の一人である私に対して“までい”の精神でご挨拶頂き、身がひきしまる思いでした。私は、原子力事故の相談窓口の責任者として飯舘村に赴任しました。初日は、村長室のすぐ隣の応接室で机と椅子をお借りして役場に来られた村民の方々の多種多様なご相談、お叱りに対しまして応じておりました。それはそれはとても厳しい時間でした。そんな中、この日に当社の社長が謝罪のため初めて飯舘村を訪問しました。当時の社長は“蚊の鳴くような声”で謝っておられ、飯舘村役場の村議会の議長をはじめ多くの職員の皆様から「なにを言っているか聞こえない」と怒鳴られておりました。そして、翌日から飯舘村役場内に設けて頂いた「相談窓口」に私は毎日通うようになりました。飯舘村は、国から計画的避難区域に指定され、5月末まで全村避難を指示されておりました。飯舘村の村民の皆様にとりましては、まさに青天霹靂だったことでしょう。飯舘村は原発から約30㎞以上離れており、浜通りの市町村から避難を受け入れる立場でした。私は相談窓口で村民の皆様から数々のお叱り、罵声をあびせられました。一時間怒鳴られ続けたこともありました。私は、村民の皆様のご指摘はごもっともで、怒りをぶつける先は相談窓口しかなかったと思います。毎日、帰社する前に、菅野村長と門馬副村長に必ずご挨拶をして、当日どのような相談があったかを報告しておりました。お二人からは必ず労いのお言葉を頂戴し、「飯舘村のためにどうかよろしくお願いします」とおっしゃられました。こんな日々が続く中、私の中には「よ~し飯舘村のために一日一日頑張ろう」と思い、村民の皆様に対して丁寧に“までい”に対応させて頂きました。この年の6月末には飯舘村役場も福島市の飯野町に役場機能を移転し、それに伴い相談窓口も、社会福祉協議会の窓口の隣に移転しました。引き続き、私は移転先の相談窓口に行っておりました。村民の皆様は全村避難のため、多くの方々は複数の仮設住宅へ移転されました。菅野村長と門馬副村長からこれらの仮設住宅に私たちが出向いて村民の皆様に賠償の相談にのってもらえないかご依頼を受けました。私は社内の上層部に村長の意向を伝えましたが、上層部の方々になかなか理解を得られず、何度も何度も粘り強く説得し、やっと飯舘村の複数の仮設住宅に出向くことになりました。その後も役場の意向に沿ってできる限りご理解いただけるよう頑張りました。相談窓口の隣でした社会福祉協議会の皆様ともすっかり仲良くして頂き、今でも交流しているくらいです。私はこうして一年三か月の間、飯舘村の皆様のために頑張って参りました。2012年6月末で会社から辞令がでて東京へ転勤することになり、菅野村長と門馬副村長にご挨拶で伺った際には、私は号泣して言葉になりませんでした。お二人からは感謝のお言葉と固い握手を頂きました。その後も私は飯舘村を心から応援しておりました。飯舘村を特集するテレビ番組や菅野村長が出演する番組は必ず見ておりました。

 また、飯舘村役場内に設置されていた相談窓口で私がお叱りを受けた自家焙煎珈琲店の「椏久里」のご主人は、福島市へ避難され仮店舗で営業再開されておりました。私はせめてもの償いと思い、ずっと一人の客として訪問して美味しいコーヒーを頂き、応援しておりました。「椏久里」さんは、その後、仮店舗から新たに新築オープンされ営業再開されました。新築されたお店にも何度も訪問させて頂きました。今でも、帰省して時間があればお店を訪問しております。93歳の父親を連れて行ったこともありました。私は、ご主人や女将さんともに、すっかり顔見知りとなり常連客として訪問しておりました。「椏久里」さんで、コーヒーの最高峰といっても過言ではない『パナマゲイシャナチュラル』を初めて知ることになり、その美味しさにすっかり魅了され、今でも東京から注文させていただいております。こだわりのコーヒーの数々は素晴らしく美味しいですし、手作りのケーキは美味しいものばかり。皆様も機会がありましたら、ぜひ訪問してください。こぼれ話ですが、私が福島勤務中、私の母の誕生日のお祝いで、福島市内の米沢牛の焼肉店「上杉」に行ったことがあり、偶然にも隣の席には、「椏久里」のご夫妻とお嬢様とお孫さんがいらっしゃっていて、ご挨拶したこともありました。

【椏久里のHP】http://www.agricoffee.com/

【飯舘村の自家焙煎珈琲店「椏久里」(ご避難される前)】

【福島市で仮店舗の「椏久里」】

【福島市にて新装オープンした「椏久里」】

【コーヒーの最高峰の『パナマゲイシャナチュラル』】

【自家焙煎珈琲店「椏久里」のご主人と女将さん】

【2020年4月26日到着した「椏久里さん」のパナマゲイシャナチュラルコーヒー豆】

 この記事を書いていて、自家焙煎珈琲店「椏久里」さんのコーヒーの最高峰パナマゲイシャナチュラルがとても恋しくなり、4/25にHPから注文し、4/26に届きました。「Stay Home」のゴールデンウィーク中、自宅で美味しい美味しい『パナマゲイシャナチュラル』を堪能させて頂きました。

 

 続いて、飯舘村では一番有名な手打ちうどん「えびす庵」も飯舘村から避難される前から度々訪問し、女将さんとは顔見知りになり、福島市へ避難され、仮店舗で営業再開された際にも、私の両親を連れて度々に美味しい手打ちうどんを食べに行き、心から応援しておりました。「えびす庵」の女将さんの高橋ちよ子さんは、名物女将で人懐っこくて前向きでまさに癒し系でおばちゃんです。飯舘村の避難指示解除後、「えびす庵」は、いち早く飯舘村に帰村されて飯舘村で再オープンされました。もちろん、再オープン後も何度も手打ちうどんを食べに行きました。

【「えびす庵」の女将さんのちよ子さんとのツーショット】

【ヒゲの隊長の佐藤正久参議院議員(前外務副大臣)も「えびす庵」を来店】

※佐藤正久参議院議員と私は高校の同級生で二年間同じクラスでした。今でも同級会で再会しております。

 

 飯舘村は、2017年3月31日に避難指示解除となりました。ただし、帰還困難区域の「長泥地区」以外です。

 私は、2013年4月に再び、故郷福島県勤務となり、復興推進室という職場で南相馬市担当となりました。その後、2017年6月末まで通算5年半福島県勤務を経験して現在に至っております。残念ながら、二度目の福島県勤務では飯舘村には関係しない仕事でした。ただし、私は福島市と南相馬市の往復の途中に、避難先の飯舘村役場に何度か立ち寄り、菅野村長と門馬副村長に福島勤務の復帰のご報告をしておりました。その後も、ご縁があるせいか、菅野村長と門馬副村長とは、福島市内でバッタリお会いしたことも度々ありました。そんな中、2017年6月に、いよいよ私は仕事として福島の地を離れることになり、最後のお別れのご挨拶のため事前にアポイントを取らせていただき、伺った際に撮影した写真は下記のとおりです。この写真は今でも私の職場のパソコンの壁紙としてしているほどです。このお別れの際にも、お二人とも戦友にでも再会するかのように膝附合わせて頂き、心から労っていただきました。私にとりまして飯舘村との出会いは一生の宝であり、忘れることができない思い出となりました。これからも飯舘村を心から応援して参りたいと思います。

【飯舘村の菅野村長と門馬副村長と一緒に記念撮影した写真】

【記者 鹿目 哲生】

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