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2020年12月号 vol.38

福島県飯舘村の菅野典雄村長10/26退任

2020年11月25日 12:49 by tetsuo-kanome
2020年11月25日 12:49 by tetsuo-kanome

 

 10/26、福島県飯舘村の菅野典雄村長(74歳)は、任期満了に伴い退任しました。飯舘村役場で退任式が行われ、職員や駆け付けた村民らが東日本大震災と東京電力福島第1原発事故から村の復興に当たった菅野氏の労をねぎらいました。6期24年にわたり村政のかじ取り役を担った菅野村長は「『村民の心が村の一番の柱であり顔』という言葉を胸に24年間業務に当たってきた。満足度200パーセントです」と感謝しました。

 飯舘村は2013年3月の東京電力福島第1原発事故後、計画的避難区域として全村避難となり、菅野村長は村の復興に向け、陣頭指揮を執りました。菅野村長は退任にあたって「大変だったことだけが全てではない。震災によって新たな出会いがあり、新しい考え方も手に入れることができた。多くの支援に感謝したい」と在任期間を振り返りました。

 福島民友新聞に掲載されましたインタビューの内容です。

―原発事故に伴い国が村全体を計画的避難区域に指定し、全村避難となった。

「全村避難と聞いた時はまさかと思った。村をゴーストタウンにしない方法はないかと熟慮した結果、車で1時間以内の避難を打ち出し、コミュニティーを維持することを重要視した。行政区ごとに小まめに会合を開くこともでき、その後の復興を進める上で、大きなポイントとなった」

―2017(平成29)年3月に帰還困難区域を除く村の大部分の避難指示が解除された。今後の課題は。

「課題が多くある中で、地域交流の拠点となる道の駅や、子育て世代の定住を図る子どもの遊び場など、村民に帰村してもらえるような条件整備を進めてきた。今後は住民福祉や生活環境の一層の充実が必要になってくるだろう」

―教育行政には熱い思いをささげてきた。

「人の成長が村全体の成長につながる。私は『子どもは未来からの留学生』と思っている。子どもたちは素晴らしい潜在能力を持っている。公民館長としての経験などから、教育に力を入れなければ将来を担う子どもは育たないということを改めて考えさせられた」

―村民や職員に伝えたいことは。

「復興を考える上で、元の村に戻すことは容易ではない。新しい村づくりを進めていくという考え方をぜひ持ってほしい。村民同士、心のシェアをしながら、思いやりを持つことが村づくりの原点になる。飯舘の『までいライフ』が日本の20、30年後の方向性になるのではないかと思う」

 

 菅野村長は平成8年の村長選挙で初当選し「手間暇を惜しまず」、「丁寧に」という意味の「までい」をモットーに村づくりに取り組んできました。菅野村長は「村民の心が村の顔であり、それをいちばんの柱に村長として『までいライフ』を進めてきた。復興においても心を分け合うことが大事で、満足度200%の24年間だった」と振り返りました。そのうえで「1つの自治体として自由もアイデアもあるが、義務も責任も伴う。村民のため、未来のために、自信、誇り、創意工夫をもって働いてほしい」と職員に語りかけました。  このあと菅野村長は集まった人たち一人ひとりとあいさつを交わして、役場をあとにしました。 菅野村長の退任式に集まった住民からは、これまでの苦労をねぎらう声が聞かれました。飯舘村内に住む67歳の女性は「とにかくお疲れさまでしたと伝えたいです。震災後、村長が痩せた気がして心配していましたが、笑顔で頑張ってくれました。震災で人口が少なくなりましたが、少しずつ昔のように盛り上がっていってほしいです」と話していました。また、飯舘村から隣の南相馬市に避難している77歳の女性は「平成の大合併の議論や原発事故などがあった大変な時期に村長を務め、苦労が多かったと思います。ご苦労さまでした、ゆっくりしてくださいと伝えたいです。今後は、若い世代の村長に村のため頑張ってもらいたい」と話していました。

 また、福島県の内堀知事は10/26の定例記者会見で「菅野村長の『助けあい、支え合いが重要だ』という理念に私も深く共鳴し、菅野村長の思いを私自身もどこかで県政に取り入れてきたのではないかと今、思い起こしている」と述べました。そのうえで「原発事故前、そして事故後、自分自身の自治体政策の基本理念をしっかり形にされてきたことに心から敬意の念を持っている。先日会った際、『これからも村民として地域の元気に微力だけど力になりたい』と言っていたので、今後もご活躍されることを祈念している」と話しました。

 私にとりましても、菅野村長との出会いは一生の宝物です。私は、加害者の立場として初めて菅野村長とお会いしました。初めてお会いした際に、穏やかな表情で飯舘村のためにどうかよろしくお願いしますと、それはそれは丁重に対応して頂きました。初めてお会いした2011年5月7日は私は一生忘れられません。私は飯舘村役場に駐在する形で被災者様の対応させて頂きました。私は福島勤務を離れてからも個人的なお付き合いとして一年に一回の年賀状のやりとりは続きました。この度の退任にあたって、菅野村長がこれまでの軌跡をとりまとめられた非売品の書籍「モノハカンガエヨウ」を私へお送りいただきました。まさに菅野村長の卒業アルバムです。これまでのご活躍の全てがつまった素晴らしい内容です。一部の写真を紹介します。

【「モノハカンガエヨウ(非売品)」菅野村長】

 私は、菅野村長の「モノハカンガエヨウ」の『まさかの出会いは人生の財産』との言葉どおり、菅野村長と私の出会いも人生の財産となりました。

【記者 鹿目 哲生】

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